桐谷圭治さんの情熱
この人のすごさは半端ではない。この人の情念は衰えることなく、もう50年も続いている。時代は、ついにこの人を越えることはないのかもしれない。この人が40年前に提唱したIPMがやっと農水省の「環境政策の基本方針」にも明記されているが「防虫ネット等を用いた物理的な防除や、天敵等を用いた生物的な防除などと、化学合成農薬の使用低減とを組み合わせた」ものが、IPM(総合的病害虫群管理)だと言うのだから、赤面する。この人はIPMを「害虫をただの虫にする技術だ」と表現する。この二つの表現の深度の違いには、唖然とする。手段は「まなざし」を付加されないと、技術にはならない。
 この人はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を、1964年にカルフォルニア大学の生協で手にしている。そして、1974年に高知県で、BHCを環境への影響を根拠に追放した。国に先駆けること2年、環境の世紀は日本でもこの人によって扉が開けられた。さらに1978年、この人はIPMの精神を「減農薬」という言葉を造語し、発信した。それが『害虫とたたかう』(NHKブックス)だった。この本はベストセラーになり、多くの若い研究者や指導員に衝撃を与えた。しかし、この戦後史上に残る名著は今では絶版だ。この本がなければ、減農薬運動もなかったし、この農と自然の研究所も生まれなかっただろう。
 そして、この世界的に高名は昆虫学者は、75歳にして、日本の農業の未来を指し示す本を執筆した。学者らしく端正な筆運びにの行間に、またしても熱い情念がほとばしるところがある。それにしてもこの本の書名は、黙示録的だ。『ただの虫を無視しない農業』(築地書館)を、私たち百姓は目指したい。国民もそういう農業を支えてほしい。
 技術は、精神性の深さを湛えてほしいものだ。戦後、この国の農政や農学や農民運動がもっとも不得意な世界を、再興する理論の書が書かれた。この人の名は記憶に留めてほしい。桐谷圭治という農学者をもった喜びを、いま噛みしめる。

「環境にやさしい農業」を目指すことに誰も反対はしない。でも、農業が「環境にやさしい」かどうかは、どうして判断するのだろうか。「農薬や化学肥料を減らせばいい」という答えが返ってくる。しかしその結果、環境に優しくなったかどうかを判断する基準もなければ、確認する技術もない。これが日本の現状なのである。この本は日本で初めて、この問いに答えを出した。日本のIPM(総合的病害虫管理)をリードしてきた著者は、IPMの目標は「害虫をただの虫にする」ことだと明確に言い切る。決して、「環境に負荷の少ない手段を駆使する」ことではないのだ。
 今まで、百姓を理論的に支援してきた著者が、とうとう満を持して提案した農業技術理論が、IBMである。直訳すれば「総合的な生物多様性の管理」になる。これこそが「自然環境にやさしい農業」の本質である。それを著者は「ただの虫を無視しない農業」と表現する。害虫・益虫よりも、田畑に多いのは「ただの虫」である。やっと農学は「ただの虫」つまり自然環境を射程に収める理論を構築できたのである。ここまで来るのに、著者は40年もかけている。その課程をも丹念に振り返ってくれているので、農業の新しい歴史書を読むような興奮も覚える。
しかし著者は、あくまでも謙虚だ。この理論を深め、広げるのは、学者だけではできない、と言う。百姓はそれに応えようという気になる。この本はこれからの農業と自然環境の関係を考える際の、もっとも科学的で、信頼のおける理論書として、これからの20年間を導いてくれるだろう。
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