2018年6月

今月の思想
これは、2018年6月27日、神奈川県農業技術センターで開かれた「日本農業普及学会」主催のEXセミナーの座長(宇根豊)解題の全文です。

【座長の問題提起】  IT技術で浮上する「経験知」
              ―農業技術思想の新しい扉が見えてきた―


1、きっかけとねらい

この数年は、官民挙げて、スマート農業、ICT技術などの開発導入が叫ばれています。その議論もほとんどが、推進・普及するためにはどうしたらいいか、という視点ばかりで、深い議論は見当たりません。日本農業普及学会のEXセミナーの座長を引き受けたのは、この先端技術の論議に風穴を開けたかったからです。
 百姓はこれまでも、いろいろと新しい技術をとり入れてきました。とくに戦後になってからの技術革新(イノベーション)は資本主義社会では不可欠でした。なぜなら、技術革新がないと、経済成長は維持できないからです。(新しい技術をとり入れる百姓は、経済成長のためにだという意識はなく、「進歩・発展」のためだと考えて来ました。しかし、なぜ農業に「進歩・発展」が必要かと問われるなら、それは近代化社会・資本主義社会の性格・本質ですから、同じことなのです。)
 ところが工業に比べると農業近代化の歩みは遅く、技術革新も劇的なものは多くはありませんでした。その理由は、百姓仕事は天地自然を相手にしており、機械を使うのは仕事の一部に過ぎないという農業ならではの特性が原因でした。(そもそも「なぜ近代化しなければならないのか」という疑念が根強くあったからでもあります。)ところが、AI、IoT、ICTによる技術革新は、これまでの近代化技術とは次元が違うように思われます。(以下、これらの先端技術を、ICT技術と総称することにします。)
 これまでの農具や農機具は、農家の手足の延長でしたが、これらの技術は、農家の観察力や判断力まで肩代わりするところが農業技術にとっては「大転換」だと思われます。技術のあり方、つまり技術の人間や環境との関係を考えるのが「技術論」ですが、近年は「技術論」が論じられることがめっきり減っています。もっぱらその技術の生産性の優劣ばかりが論じられているような印象です。しかし、その技術がほんとうに人間や地域や自然を幸いなものにするかどうかが、論じられるべきでしょう。
これまでは、植物工場や無人ロボットなどの世界は、農業の中でも特殊な分野のことで、いわば主流にはなれない分野だとか、機械技術のテクノロジーの狭い分野に過ぎないと思われてきましたが、ここに来て事態は農業の根幹を揺るがす(大変革させる)ものになりそうです。
ところで、ICT技術による技術革新を「新・沈黙の春」の到来だと言う人もいます。かつて1950年代に本格的に登場した「農薬」はなかなか普及しませんでした。水田除草剤ですらそうでした。いわゆる「伝統稲作技術」は確立していたからです。ところが1960年代になると、急速に普及していきます。農業改良普及員の貢献は大きいものがありました。しかし、要防除密度も設定できないまま、作用機作はもちろん環境での動態も百姓にはわからないままの普及でした。その結果、農薬散布中に年間百数十人が亡くなり、自殺者も入れると百姓の死者は年間1000人を越えました。中毒者は百姓の1/3にも及んだのでした。レイチェル・カーソンが生きものの声が聞こえない「沈黙の春」(1964年)と呼んだことは有名ですが、日本でそれをちゃんと受けとめたのは、一部の研究者にとどまりました。
 ICT技術革命は、百姓の姿を野辺から駆逐するのでしょうか。正確に言うと、百姓の生きものへのまなざしを崩壊させるのでしょうか。無人のロボットや施設は活発に働いても、作物や生きものと向き合って声を聞いているのは、人間ではない、という沈黙の世界がほんとうに出現するのでしょうか。
 ICT技術はこれまでと同様に、外部で開発され、村や農家の外から持ち込まれます。百姓や専門家はどのように受容するかだけが論議されていますが、百姓や指導員(専門家)は受け身のままではいけないのではないでしょうか。国も都道府県も農協も企業も、これらの技術の導入に積極的ですが、効用だけが強調され、十分な議論が行われているとは思えません。
 近年は、AI化によって失業が増えるという予測が相次いで発表されています。(ある報告では2030年には就業者は半分になるそうです。)しかも、百姓や漁師までもがその対象となっているほどです。(「無人のロボットで作業するので、百姓はモニター画面を眺めていればいい」などと呑気な発言をしている場合ではないでしょう。)
農業普及学会は、当事者である百姓の問題を、第三者的にとらえるのではなく、第二者(第二人称・半当事者)の視点・態度でとらえることを特徴としています。この三つの立場を交差させながら、はたしてこれらの先端技術がどのように農業を変えていくのか、百姓の人生にどういう影響を与えるのか、指導員の役割はどのように変容するのか、を考える機会が必要です。

 今日はいくつかの切り口から、ICT技術のあり方を考えていきます。百姓や指導員がこれらの技術をどう受けとめ、どう対応していけばいいか、自分なりに技術革新についての見取り図を描くこと、さらに技術とは何かを考える方法を身につけることをねらいとします。もちろん、ICT技術を拒否して生きる道だって考察の対象です。

2、技術とは何か

私の役割は、まずこれらの先端技術の技術論の枠組みを整理することです。まずは下の絵を見てもらいましょう。これは、私が当農業普及学会の第一回奨励賞(1999年)を受賞した「土台技術論」の中心となる概念図です。



なぜ、「土台技術論」を久しぶりに持ち出したかというと、三つのきっかけがありました。
(1)近年になって、技術や経営を論じる場面で「技能」に言及する研究者に出会うことがありました。「おやっ?」と感じたのです。要するに高度な生産性を追求すればするほど、百姓の「技能」面がものを言う局面になると言うのです。科学技術だけでは対応できなくなるのです。
(2)植物工場の権威である古在豊樹さん(元千葉大学学長)が、「植物工場でも作物の出来は、実務者の経験に左右される」と正直に吐露していることに、驚きましたし、共感しました。百姓仕事や農業技術はマニュアル化できない世界(土台技術)によって支えられていることに、気づいているのです。これはコンピューター管理を導入した施設栽培をやっている百姓の実感でもあります。私の友人は「宇根さん、コンピューター任せでトマトができると思っているんじゃないだろうな。」と苦笑いしていました。そもそも全く同じ条件下でも、作物の育ちは異なります。作物ひとつひとつに個性があるものです。また、もともと全く同じ条件など、自然界にも植物工場にもあるはずがないでしょう。たとえば百姓がよく通る通路側とそうでない側では、生育がちがいますから。
 (3)農水省の資料には、ICTの課題として「熟練農家の高い生産技術(暗黙知、経験則)をどのようにマニュアル化して引き継ぐか」があげられています。古在さんや友人の百姓と同じ壁にぶつかっているわけです。しかし、なぜ今頃になって初めて、こういうことに気づくのだろうか、というのが私の当惑です。つまり、気づかざるをえなくした当のものが、ICT技術の中に含まれていることが重要です。
 農業技術(上部技術・テクニック・マニュアル化できる工程)は広大な「土台技術」(経験知・無意識の暗黙知・準備・ふりかえり・情念・情愛・生き甲斐など)によって支えられていることは、これまで農学の対象としては重視されてきませんでした。しかし、問題の根はもっと深いところにあるようです。田畑から人間を引き上げることが、農業の進歩だと考える思想のことです。そうであるなら、私の主張は明快です。当然ロボットにも「土台技術」を身につけさせるべきです。そうしないとうまくいかないし、何よりもロボットに失礼ではないでしょうか。
 百姓の生きる喜びも悲しみもロボットに譲り渡すということは、ロボットに生き甲斐を持たせることです。そうしなければ、百姓の生きる喜びは誰が(何が)継承するのでしょうか。この譲り渡す過程にこそ、最後の思想的な闘争が待ち構えているのではないでしょうか。

3、技術と技能(仕事)のちがい

そこで、技術(科学の知)と仕事(技能・経験の知)とのちがいを整理しておきましょう。まず最初に、私の整理を表にしています。次に、今春農業経験のある青年たちに同じ質問をしてみたところ、面白い回答が続出したので、それも表にして掲げてみました。

 【宇根豊の答え】
 【技術にあって仕事にないもの】         【仕事にあって技術にないもの】
 1、「つくる」という意識               1、「できる」「とれる」という感覚・天地観
 2、因果関係(法則性)が比較的に明確だ   2、生起する現象として把握する
 3、普遍性・合理性・客観性がある        3、個別的・ありのまま・主観的だ
 4、効率重視。費用対効果が重要        4、時を忘れ、経済など眼中にない
 5、目的とするものしか生産しない        5、無駄なものまでできてしまう
 6、誰にでも使える                 6、その人だけのもの
 7、マニュアル化できる。設計できる。      7、全容は表現できない
 8、自然や生きものを対象化する        8、自然の中に入り込む。生きものも仲間だ

 【経営大学校の学生の答え:農業実習を経た後】
 【技術にあって仕事にないもの】         【仕事にあって技術にないもの】
1│技術の核は法則性。              1│仕事の核はいろいろ。(情愛・技能・使命・)
2│技術があれば、仕事が進歩する。      2│技術がなくても成り立つ仕事もある。
3│目的・目標を極めるもの。           3│目的としていないものも生み出す。
4│生産に直結する。                4│生産につながらないものもある。
5│専門的。デザインできる。           5│総合的。全体が見えている。
6│科学的。                      6│主観的。
7│特徴を出さなくてはならない。         7│後で、外から振り返れば、特徴もあるだろう
8│新しさを求める。技術は革新されていく。  8│変わらない仕事もある。
9│マニュアル化できる。伝えやすい。      9│身体が無意識に動くので、見て真似る。
10│誰にでも共有できる。普遍性がある。   10│その人にしかできない仕事もある。個別的。
11│必ずしも経済とは結びつかない。      11│後で、経済につながることもある。
12│効率を求める。コスト意識がある。     12│無駄なもの、無駄な時間もある。
13│限界が見える。可能不可能がはっきり。 13│やってみるしかない。
14│つくる。(人間が主体)             14│できる。とれる。(天地自然が主体)
15│どこでも通用する                15│相手(作物など)に合わせる。
16│自然や生きものと距離ができる。      16│天地自然の中で、生きものと一緒にいる。
17│子どもにはやらせない。            17│技術がない子どもにもできる仕事もある。
18│手段。テクニック。機械の操縦。       18│生きていくこと(生業)そのもの
19│規格通り。                    19│情愛の方が大切なことも多い。かわいそう。
20│時代が変われば、古くなる。         20│時代とともに変わるものもある。変わらないものは残る
21│選べない。(外発的)              21│自分の一部(内発的)
22│技術の外側はどうでもいい。         22│格好・衣装も大切だ。宗教性もある。 │
23│人間の代わりに機械がやってくれる。    23│一人でできないこともある。 │
24│すべてが意識的。                24│時を忘れ、我も忘れることも多い。 │

これまでの技術の定義(武谷三男による)とは、
 「技術とは生産(実践)過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」というものですが、この定義が農業技術に必ずしも当てはまらない理由の最大のものは、百姓の身体は、意識的に動いているときよりも、無意識に動いている方が自然だからです。それは、どうしてでしょうか。
 答えは、簡単です。上の学生たちが答えたように、仕事は技術だけで成り立っていいるわけではないからです。技術は「科学の知」を土台にしていますが、仕事は科学の知がなくても「経験の知」があればできるものです。このことを理解していない農業専門家はまずいことになります。

4、科学の知と経験の知

そこで、「科学の知」と「経験の知」のちがいを整理しておきましょう。くわしくは、2018年3月の農業普及学会大会・第三分科会の資料にあたってほしいのですが、「科学の知」だけでは、人間と天地自然の関係はとらえきれません。近年の「自然主義」(すべては科学的に解明できるという考え方)の隆盛は、脳科学やAI研究を背景にしていますが、農業界にも及んできています。表1のABCの重視と、abcの軽視のことです。
 第三分科会の結論は、科学のABCとともに、経験のabcもともに大切だという、穏当な結論になりましたが、この実践は簡単ではありません。

 表1 科学知と経験の知のちがい
【科学の知】         【経験の知(臨床の知)】        【参考:暗黙知(無意識)】
A普遍性:いつでも、誰にでも、   a個別性:個人や地域や歴史や特殊性こそ、 ○すべてが個人的。
 どこでも通用する。          固有の輝きがある。自分の経験こそが、
                      判断の基盤。

B論理性:因果関係がある。     b非合理:多様性と多義性がある。総合的   ○要素に分解できない。
 科学的な法則性(合理性)がある。 で直感的。非合理であっても、納得すれば   言葉にすることはできな
 分析的、原子論的。          いい。                         い。

C客観性:扱う者にとらわれない。 c主観性:感情的で、受動的。           ○主観(知覚)以前。
 主体が見えない。機械論的。   相互作用を重視。心と身体を見失わない。    無意識に感じ、動く。


 「暗黙知」とは何か



 なぜなら、農業技術も同じような論理にはまっているからです。新しい技術は、①生産量が増える(増収する)か、②品質がよくなるか、③労働時間が短くなるか、④コストが低くなるか、で評価されるのが当然のように思われてしまっています。とくに近年は③④が重視されるようになったのは、誰でも気づいているでしょう。
 これはABCの影響がもろに出ています。一方abcである、技能・土台技術・経験知の伝承は衰えてきています。⑤どのような情愛のまなざしを注ぎ、⑥どのような天地自然観を背負って、⑦どのような伝承を身体に宿らせ、⑧どのようなものを未来に残そうとして、仕事をしてきたかは無視されつつあります。
 それは、農業技術によって生産されると言われている「食べもの」の価値にも如実に表れています。①安全で、②おいしくて、③新鮮で、④安い、方がいいとされるようになりました。それは、①農薬残留、②成分、③賞味期限、④価格、というように、科学的に表現されるのがあたりまえになりました。その結果何が見失われようとしているのでしょうか。
 ⑤どこで、どういう天地自然からもたらされたのか、⑥誰が育てたのか、⑦どういう情愛を注ぎ込んだのか、⑧なぜこの食べもの(生きもの)はここにいるのか、⑨どういう生を全うしてきたのか、などに思いをはせることが少なくなりました。
 一方の「経験の知」とは何かを考えてみましょう。私たちの先祖は、科学がなくてもちゃんと生きて来ましたし、私たちも科学がないと不便ではありますが、生きていくことはできます。「科学の知」とは経験の知のうちで、科学で解明できる部分の説明なのです。では経験のうちで科学化できる部分とはどこでしょうか。
(1)誰がやってもできる部分、(2)どこでやっても再現できるもの、(3)数値化できる部分、(4)(4)計算できること、(5)素人でも理解できる部分、(6)実験できる部分、(7)設計できること、(8)分析できること、(9)記述できること、などです。
まだまだこの他にもあるでしょうが、ようするに実際に経験しなくても、机上で組み立てることができるもので、新しい理論が発明されると捨てられていくものでもあります。これらの性質をまとめると、前述のABCになるわけです。(百姓経験のない普及指導員も、それなりに役立つのは、ABCの恩恵です。)
 私が「経験の知」の理論を最初に学んだのは、中村雄二郎の『述語集』(岩波新書)のなかの「臨床の知」からでした。そこで、中村が言う「臨床の知」とはどういうものか紹介しましょう。
(1)物事を対象化して、冷ややかに眺めるのではなく、相互主体的かつ相互行為的にみずからコミットする。そうすることによって、他者や物事との間にいきいきとした関係や交流を保つ。
 (2)個々の事例や場合を重視して、物事の置かれている状況や場を重視する。つまり、普遍主義の名のもとに自己の責任を解除しない。
 (3)総合的、直感的であり、共通感覚的である。つまり目に見える表面的な現実だけでなく、深層の現実にも目を向ける。
※「共通感覚的」とは、「視覚が働くときでも、単独ではなく、他の諸感覚とくに触覚を含む体性感覚と結びついて働くので、その働きは共通感覚的だ」ということです。
そして中村はこうまとめています。「臨床の知は、直感と経験と類推の積み重ねから成り立っている。」と。(『臨床の知とは何か』岩波書店)より
さて、ICT技術はなぜ「科学の知」だけでなく、「経験の知」を取り込まないと役に立たない言われはじめているのでしょうか。私たちは、技術の全体像を要求されていると言ってもいいでしょう。

4、ICT技術の革命性
前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。ICT、AI、IoT技術が革命的なのは、仕事を分解して、(1)見る・感じること、(2)判断すること、(3)手入れをすること、に分けたことではありません。それを人間から切り離して独立させることの可能性を追求していることです。これは、高度なセンサーの開発、ビッグデータの活用、ディープラーニングの発見によるところが大きいのでしょう。
そこで、課題・論点を整理するために、これらを図示してみました。






 上の絵を頭に描きながら、考えられる論点を分類・整理しておきましょう。

│ A:哲学的な(思想的な)論点            C:百姓への影響
│  -1・ものの考え方                 -1・生きがい・人生
│  -2・社会に対する影響              -2・天地自然・風景・共同体
│  -3・経済の問題                  -3・環境・エネルギー

│ B:技術的な論点                    D:専門家の役割
│   -1・観察・センサー                -1・どこを手助けするか │
│   -2・判断・プログラム                -2・何を警戒するか │
│   -3・手入れ・作業                  -3・行政・学会の姿勢はどうあるべきか│

【A-1:哲学・ものの考え方】
1、なぜ、次から次に新しい技術を開発しなければならないのか。
2、しょせん、経済成長のための道具であって、本来のあるべき姿を追究した結果ではないのではないか。
3、ICTが明るい未来のイメージを強調するのは、「自然主義」(すべては自然科学で解明できるとする思想)をベースにしているのではないか。
4、技術が人間から独立する可能性が出てくると、技術の定義も変わってしまうのではないか。
5、なぜICT技術では、これまで軽視されてきた「経験知」「技能」「土台技術」が重視されるようになってきたのか。
6、「技能」の重視は、むしろ人間の経験知や技能を「人的資本」として見なすようになり、これまで手つかずで残されてきた「生き甲斐」を葬ることになるのではないか。
7、「農の本質」が壊れることになりはしないか。
8、管理社会に吞み込まれることにならないか。
9、シンギュラリティが本当に起きるのなら、機械が人間を離れて一人歩きするのではないか。
10、AI、ICT技術に倫理上の問題はないのか。
11、欠陥は開発途上ということで免責されることになるのではないか。
12、百姓の知的な仕事まで奪われるのではないか。

【A-2:哲学・社会への影響】
13、労働力不足、人件費節約、担い手不足解消の切り札になるのか。あるいはこういうものの考え方は事の本質を見失わせることになるのではないか。
14、農業のイメージが自然から離れるのではないか。
15、機械任せになると、農業の独自性が消失するのではないか。

【A-3:哲学・経済の問題】
16、さらに分業化が進み、経済成長を支え、経済への従属を促進するのか。
17、技術革新(イノベーション)によって、経済成長を促すというシステムにはまり込み、終着点が見えなくなっていくのではないか。
18、AI化は、担い手不足解消の段階を過ぎると、失業をもたらすのではないか。
19、農業は労働集約型産業から、担い手不足などに対応するために、ICTを導入することによって、労働集約型から脱却することになるのか。

【B-1:技術・センサー】
1、センサーが人間の目や手足の代替をどれほどできるのか。
2、ビッグデータがないと成り立たないが、データ化できるのか。
3、果たして、判断力を肩代わりできるのか。
4、人間の知能や判断能力を凌駕するようになったらどうなるのか。
5、無意識の知(暗黙知)をどのようにデータ化し、入力するのか。
6、技術を「要素分解」する方法が発達して、総合化する面が衰えるのではないか。

【B-2:技術・判断】
7、百姓仕事の影響は、因果関係がはっきりしない現象が多いのではないか。それを果たしてビッグデータで分析できるのか。
8、ミスが出たら、誰の責任になるのか。
9、ICTは「農業機械」と言えるのか。
10、百姓の「勘」「経験」「情愛」による判断をどのようにICTに組み込めるのか。
11モニター画面を見ている仕事は従来の仕事に比べて、どういう質的な転換になるのか。

【B-3:技術・手入れ、作業】
12、機械が事故を起こしたり、故障したらどうするのか。
13、繊細な作業ができるのか。
14、想定外の事態に対処できるのか。
15、機械が仕事を楽しんでやるようになるとしたら、重大な問題が生じてくるのではないか。

【C-1:百姓・生きがい】
1、百姓仕事自体の楽しみや苦しみはどこに行くのか。喜びや嬉しさはどこで感じたらいいのか。
2、「農業体験」教育ができなくなるのではないか。
3、百姓の情愛や感性は仕事の中ではなく、どこで養えばいいのか。
4、相手の作物や田畑、生きものとの交感はできなくなるのか。
5、ICT技術が切り捨てた(対象外)とした仕事の世界はどうなるのか。
7,百姓の経験の伝承はどう変化するのか。

【C-2:百姓・天地自然】
6、生きものと人間の関係はなくなるのか。
7、ICT任せにしていたら、田畑、作物への情愛や天地自然観はどのようにして形成していったらいいのか。(これまでは、仕事によって無意識に形成されてきた。)
8、村の共同体は影響を受けないのか。
9、風景が変化することになるのではないか。
10、生きものからはどう見えるだろうか。

【C-3:百姓・環境】
11、さらにエネルギーの投入(消費)を増やすことになるのではないか。
12、環境への配慮は限定された世界だけになるのではないか。
13、生きもの調査もICTがやるようになるのか。

【D-1:専門家・支援】
1、「指導」のあり方、やり方は大きく変化するのではないか。
2、技術のマニュアルがブラックボックスになり、指導者の手に負えなくなるのではないか。
3、研究や調査の仕方は変わるのではないか。
4、ICTに任せた後の百姓仕事のマニュアルがこれからは、必要になっていくのではないか。 それを誰がつくるのか。
5、指導員が苦手であった「経験知」に切り込まなければならなくなるのか。
6、ICT対応指導と、ICTを拒否する百姓への指導と、二極化するのではないか。

【D-2:専門家・警戒】
7、安全性やグローバル化には敏感な百姓や市民も、ICTの導入には危機感を抱かないのはどうしてか。
8、ICTの哲学や技術論をどこで学べばいいのか。
9、技術の非公開の部分が増えていくことにどう対応したらいいのか。

【D-3:専門家・行政・学会】
10、行政はただ「推進」の旗振りだけをしていていいのか。課題と対策の整理を行うべきではないか。
11、他分野の知見をとりいれる必要が増してくるのではないか。
12、普及学会は、何をなすべきか。

5、これらの論点の討論

 すべての課題を論じるのは無理ですから、いくつかに絞って討論しなければなりません。
 そこで、三つの柱を立てることにしましょう。
(1)ICT技術はどういう問題にぶつかっているか。とくにこれまでの技術とのちがいはどこにあるのでしょうか。
 その問題は解決できるのでしょうか。解決できないで残る問題はあるのでしょうか。
 (2)ICT技術によって、「技術とは何か」が明確に問われることになりそうですが、そもそも農業技術の特性は(工業技術と比較したときに)どこにあるのでしょうか。とくに百姓の「経験の知」をどのようにつかめばいいのでしょうか。それをICTにどこまで組み込めるのでしょうか。
(3)ICTによって、農業はどのように変わっていくのでしょうか。百姓仕事の核心部分は残るのでしょうか。それとも空洞化していくのでしょうか。そもそもこういう議論をすることには、どういう意味があるのでしょうか。
いずれにしても、星先生と横田さんの報告を受けて、議論の枠組みを固めたいと考えています。

6、私の提案
もし「農薬」が、百姓の前に登場してきたときに、このような議論が普及所などで行われていたなら、「減農薬」運動は不要になっていたかもしれません。また「有機農業」の位置づけも異端ではなく、ちゃんと位置づけられていたでしょう。
 「農業普及学」とは、すべてにわたって、百姓は一方的に受容者ではあり得ない、あってはいけない、と考えます。なぜなら、林兵弥さんや横山繁樹さんを援用するなら、普及指導員は当事者でも第三者でもなく、第二者、半当事者、第二人称の立場であるからです。つまり、内からのまなざしと外からのまなざしの両方ともを身につけておかねばならないからです。そのために「学」が必要になるのです。
 その「学」を動員すべき事態が、ICT技術革命として、ここに立ち現れているのに、ほとんどの百姓と農業専門家は、単なる新しい技術の一つであって、深く考える必要はない、と思っています。だからこそ、このセミナーの意義があるわけでしょう。
 私の主張はっきりしています。AI、IoT、ICT技術の開発普及は、むしろこれらの機械ではつかみにくい百姓の「土台知」(経験知)の存在を浮上させます。いや浮上させるような使い方、運用をしないなら、百姓の「土台知」(経験知)が失われていくでしょう。そういう意味では、従来の農業新技術とは、ちがった新しい「技術論」を百姓も指導者も研究者も開発して身につけなければならないのです。(私は2500年前の中国の「荘子」の「機心」を思い出します。荘子だったら、どう言うだろうか、と想像するのです。)
私の提言は、いちおう次の三つになります。
(1)機械に任せることができない世界があることをはっきりさせることが大切です。それを表現することが、百姓と専門家の新しい仕事になるのではないでしょうか。
(2)ICT技術(装置・機械)を道具として扱うことをやめて、自分の一部だと意味づける思考実験をやってみることが必要です。あるいは百姓仲間として認知する。(あるいは拒否する。)そして、自分の気持ちがどのように変化していくかを、自覚してしっかり見つめることは、案外豊かなみのりをもたらすかもしれません。つまり、ICTとの対話こそが、自己との対話でもありうるかもしれないのですから。その対話がどのような思想をもたらすかを確かめることは、普及学の領分でしょう。専門家は、その対話にアドバイスする存在として意味を見いだすことになる可能性があります。
(3)一方で、これらのICTの採用を拒否して営まれる農業に、新しい価値を認め、名称を与えることが必要になるでしょう。この場合でも、従来農業(慣行農業)とは違った次元に進むことを意識しなければ、単なる時代遅れの農業の烙印を押されるだけです。


【宇根豊が推薦する図書】

1、脳科学
『意識をめぐる冒険』クリストフ・コッホ 2014年 岩波書店
『意識はいつ生まれるのか』ジュリオ・トノーニ他 2015年 亜紀書房
『サブリミナル・マインド』下條信輔 1996年 中公新書
『サブリミナル・インパクト』下條信輔 2008年 ちくま新書
『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二 2013年 講談社ブルーバックス
『脳には妙なクセがある』池谷裕二 2013年 扶桑社新書

2、AI、ICT
『AIが人間を殺す日』小林雅一 2017年 集英社新書
『人工知能と経済の未来 -2030年雇用大崩壊-』井上智洋 2016年 文春新書
『ビッグデータと人工知能』西垣通 2017年 中公新書
『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰 2017年 中公新書
『記号創発ロボティクス -知能のメカニズム入門-』谷口忠大 2014年 講談社選書メチエ
『ビックデータの覇者たち』海部美知 2013年 講談社現代新書

3、哲学
『臨床の知とは何か』中村雄二郎 1992年 岩波新書
『心という難問』野矢茂樹 2016年 講談社
『いま世界の哲学者が考えていること』岡本裕一郎 2016年 ダイヤモンド社
『心脳問題』山本貴光、吉川浩満 2004年 朝日出版社
『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー 2003年 ちくま学芸文庫
『しらずしらず』レナード・ムロディナウ 2013年 ダイヤモンド社

4、農業技術
『百姓学宣言』宇根豊 2011年 農文協