13回 無意識の仕事に支えられて在る天地自然観

― 農の本質へのもうひとつの接近 ―

 今回は、百姓が無意識に見ている世界が大切であることを、それが現代社会では衰弱していることを証明しようと考えています。しかし、こんなことは少なくとも農の世界では、前代未聞のことでしょうし、はたしてうまくいくか自信がありません。ぜひともご批判、ご助言ください。

1、「無意識」という言葉
 「無意識」という言葉は、とても便利なもので、現代人はよく使います。駐車場に車を止めて、会場に向かいながら、「あれ、車の鍵はかけてきたかな」と不安になり、車に戻ると、ちゃんと鍵はかけられています。「無意識にかけたのだな」と納得します。あるいは、考え事をしながら運転していても、ちゃんと自宅に到着しています。まさか無意識にハンドルを握っていたのではないのですが、道中のことなどまったく覚えていません。「無意識に運転していた」と言うしかありません。しかし、赤信号ではちゃんと止まっていたのでしょうが、それも忘れています。
また熟練した仕事をする時には、「無意識に身体が動く」とも言います。とっさの時に身体が動くのも無意識でしょう。
 このように、自覚していないこと、意識していないこと、覚えていないこと、忘れてしまっていることはいっぱいあります。それを「無意識でやっている」と言うなら、私たちの人生の半分以上は無意識の世界でしょう。
 ところが、「無意識」という用語は、フロイトやユンクなどの精神分析の世界で用いられ始めたために、精神分析の用語で、「無意識とは過去の抑圧された欲望である」(フロイト)や「無意識には個人の経験を越えた集合的な無意識がある」(ユンク)などという特別な世界という印象がつきまといます。もちろんフロイトなどによって「無意識」という用語が普及したことは画期的なことだったのでしょうが、その後の心理学が、私たちが日常の中での体験である「無意識」まで展開されているとは思えません。
 いろいろと無意識について書かれた本を読んでみたのですが、小浜逸郎の『無意識はどこにあるのか』(洋泉社1998年)がもっとも納得がいったので、まずこの本の核心を紹介しておきましょう。小浜はフロイトやユングなどを批判つくし、次のように自分のねらいを説明しています。
「日常的に生きられてはいるが、未だはっきり言葉で明示されていない〈生〉のありように、私は「無意識」という呼び名を与えたいと思う。」
 そのねらいは、
 「無意識と呼ばれるものが実際にあらわれる場合、それは常に意識に寄り添うかたちで、ある意識に気づかれるという仕方であらわれる。その意味では、無意識とは、どこまでも意識的な事件であり、意識自身が自分を越えたものを意識させられるという現象である。」
まったくそのとおりです。無意識は気づかれてはじめて(意識でとらえられてこそ)無意識として自覚されるのですから。小浜はまたこうも言っています。
 「無意識が常に意識に寄り添い、意識の「子ども」のように見えるとしても、それは、意識が無意識を産出するからではない。それは、人間が、自分は意識の営みによってだけ生きているのではないと気づくのに、意識によってそうするしか方法がないからである。」
 たしかに、無意識はそれが働いている時点では、意識できません。意識できているなら、無意識ではなく、意識そのものです。後になって、あるいは他者(の意識)によって、無意識だと気づくものなのです。
 小浜の視点に私が惹かれるのは、次のような箇所です。
「時を忘れて名曲に浸るというような場合、私たちは「時間」を意識しないにも関わらず、かえってそのことによって、もっともよく「時間性」のさなかを生きていると言える。「時間性」を「時間」として意識するのは、タムリミットが近づいていることに気づかされるときなどである。」
 百姓仕事に没頭して、時の経つのも忘れているときには、もちろん「時間」など意識していませんが、無意識の世界ではじつに豊かな「時間」を過ごしているのです。小浜は人間が自分の臓器を意識するのは、異常があったときであることを例にあげて、意識が臓器(身体)のことを忘れている状態(つまり無意識の状態)こそが、私たちの身体性(生、生き方、人生)を実現させている、と表現しています。なるほどと、納得しますが、普段はこんなことを意識することはありません。(だから無意識に支えられている、と言えるのです。)
  
2、「無意識」という言葉をなぜ用いるようになったのか
ところで私は、近年の著書では「無意識」という言葉を、よく使っています。いくつか例示してみましょう。(下線は新しく引きました。)

 生業とは、自分が生きていく世界の環境がいつもそこにあるように無意識に守っていく営みなのです。ということは、生業の世界が失われることによって、何か大切なものを私たちは失ってきたとは言えないでしょうか。(『農本主義へのいざない』創森社)

 だれもがすぐに口に出す「日本農業」という無意識のナショナリズム(a)が、「一人一人の生業としての農」を基盤としているパトリオティズム(b)を衰退させてきた原因が、ここにも顔をのぞかせています。(『愛国心と愛郷心』農文協)

 かつての日本語の「自然」とは人間がいろいろと詮索するものではなく、ただ存在を感じていればいいものなのです。それが西洋からやって来た「自然(Nature)」になると、人間が対象化して、あれこれと形を測ったり、沙汰(論議)したりするようになっていくのです。たしかにNatureの意味の「自然」はとても表現しやすいものになり、「自然に没入する」などという言い方も普通にされるようになりました。しかし、この両者は別物なのですが、未だに日本人は無意識に重ねてしまうのです。たぶんこれからもそうでしょう。(『愛国心と愛郷心』農文協)

カネにならないものを大切にし、国の政策よりも在所の価値を優先し、百姓仕事への没頭を楽しみとしてきた百姓の生き方は、農本主義の表現です。つまり表面的には近代化を求めて、都会の文化にあこがれ、国家にすがりたがる百姓だって、心の底では、そうした流れと農本主義的な原理の間の葛藤を無意識に続けてきたのです。(『愛国心と愛郷心』農文協)

 すべて下線部分は「意識せずに」「意識しない」と言い換えることができます。たとえば、私たちはお玉杓子を見ると、「お玉杓子だ」と気づきます。この「お玉杓子」という名前をどこで、誰に教わったのか、覚えていません。またこの名前が「日本語」であることなども、意識しません。まして「お玉杓子はなぜ、田んぼに多いのだろうか」と日本語で考えている自分が、いつのまにか在所よりも「日本」を上に見る日本人になってしまっていることも自覚していません。すべて無意識のことなのです。しかし、これらは決して遺伝子に組み込まれていたものではなく、いつのまにか習得したものなのです。
 今回の私の最大の発見(ちょっと大げさですが)は、農とは、本人が意識しない世界に支えられて営まれているのではないか、ということです。それは百姓仕事をしているときに、よく現れています。
しかし、農業をとらえる思想や学問などは、意識された世界ばかりで表現されてきました。それは無理もないことです。これに異を唱えるのは、無謀な気もしますが、これをやらないと、前回からのテーマである「農の本質」に到達しないのです。つまり「私たちは、農の本質を考えることがない」というのは、意識的には考えることがない、ということであって、「無意識にはとらえている」いうことではないでしょうか。しかし、それを表現しなければ、説得力はありませんし、何よりも意識の世界だけで農をとらえてきた方法を乗り越えていくこともできません。

3、言葉にすることは意識しないとできないが
たしかに表現するためには、意識しないとできません。ここで、すぐにつまずきそうになります。具体的に考えてみましょう。
 「自然」と口に出すときには、もちろん自分を自然の外に置いて、外から意識的に自然をとらえています。それはこの言葉が「Nature」の翻訳語であり、神と人間と人造物以外を指す言葉だから当然なのでしょう。しかし「天地」と言うときには、(もっとも現代では、この言葉が使われることはめっきり減りましたが)案外、無意識に感じているだけなのかもしれません。なぜなら、天地とはもともと人間も包含する言葉だったからです。
そこで、「あなたの自然観とは、どういう内容ですか」と問われたら、百姓なら(そうでなくても)誰でも、戸惑うにちがいありません。そんなことは、意識的に考えたことがないからです。しかし、自然を構成する様々な生きもの(有情)とはつきあってきたのですから、自然に対する自分なりの見方がないわけではないでしょう。「自然は大切だ、自然に惹かれる自分が好き、自然が減ってきているのが心配だ。」というようにいくらでも表現できます。
 ただ自然(天地)とは、もともと受け身で感じてきたものです。それは、無意識に感じて、見てきた、と言うこともできます。その部分を表現しようとすると、途端に窮します。
 まず、それは表現しなければ(言葉にしなければ)ならないものだろうか、言葉にできるものだろうか、という疑問がわきます。これまで、そんなことを問われたことも、自ら言葉にしたこともなかったからです。相当な動機やきっかけが必要になります。
 さらに、それでも求められて言葉にしようとするときに、それが個人的な感じ方(見方)なのか、在所的な(共同体的な)ものなのか、区別がつかなくなるのです。個人的なものなら、できないこともありません。自分の半生をふりかえってみれば、いくら無意識の世界に埋もれているとは言っても、それなりの天地自然観のというべきものは、経験し積み重ねているものですから。
 ところが、その個人的な経験が、決して個人的でないことにすぐに気づくのです。たとえば、生きものの名前は学校に上がる前から、家族や在所の人たちから習ったものがいっぱいあり、そのほとんどが在所の言葉(地方名)なのですから。つまり家族や在所の人間が呼ばない名前は、覚えるはずがないのです。ということは、在所の人間が関心を示さない天地には関心を向けないように教育された自分がそこにいるのです。
 この在所の見方こそが、自分の天地観の土台だとすれば、その歴史を(蓄積を)遡って行かなければならないくなるのです。(私は異郷で百姓になりましたが、一番困り果てたのは、この在所の天地自然観がなかなか身につかなかったことです。そういう蓄積がないのですから、無理もありません。新規参入の百姓の悩みの土台にあるのは、このことなのです。)これは、言葉を換えると「愛郷心」にもなります。
さて、わざわざ表現する必要もないと考えられてきたもの、つまり無意識に感じておればすむものをどう表現したらいいのでしょうか。私はこれをとりあえず「無意識の天地自然観」と呼ぶことにします。
さて、この無意識の天地自然観と言うべきものを身につけて、私たち百姓は日々田畑に通い、仕事をし、あるいは農業技術を行使しています。したがって、仕事や農業技術は、百姓を通して、この天地自然観から影響を受け続けている、と言ってもいいのですが、誰もそうは考えないのです。
 
4、無意識に見ているものの方が多い
 ここで、前回の最後の話しに戻ってみましょう。無意識の世界に気づく瞬間に戻ってみたいのです。
百姓は稲を育てるために田植えをするのであって、赤とんぼを育てるために田植えをしているのではない、と言われています。つまり、稲作技術というものに赤とんぼを育てる技術は含まれていないのです。それにもかかわらず、赤とんぼにとっては、田植えをしてもらわなければ、産卵できないし、ヤゴも生育できません。そこで田植えという仕事には、無意識に赤とんぼを育てる「機能」がある、と言うしかない、というのが常識になっています。(生態学では、赤とんぼは田んぼに適応していると言うが、同じことを百姓を切り捨てて言っているだけです。)
 しかし、ほんとうにそうでしょうか。人間の力や技、まなざしが及ばないところで生成するものを「多面的機能」と呼ぶ(あるいは適応と呼ぶ)ことによって、思考停止に陥って、農にとって大切なものを見落としてしまっているのではないでしょうか。
 私は、百姓は無意識に見ている、無意識の天地観に導かれて、ほとんどの百姓仕事をしているので、無意識に生きものの生に対応している、と主張したいのです。
しかし、無意識であれば、意識していないわけですから、「気づいて」はじめて、存在が分かるものです。その「気づき」がやって来なければなりません。私がこの連載で、述べて来た内容は、無意識の世界を気づいてもらうきっかけになればと考えているのです。気づきとは、他者(たとえばこの私)による指摘に反応するときや、時間が経った後でふりかえるときです。あるいは、異常事態になると、それまでなにげなく(無意識に)見ていたものや、していたことが、「無意識にしていたのかもしれない」と気づきます。
畦で一服していると、赤とんぼが田植え直後の田んぼの水面にしきりに尻尾の先をつけて、卵を産んで回っています。「そのために 田を植えさせる 赤とんぼ」とは、田植えは赤とんぼのためにもしていたのだという気づきをもとに、句にしました。それまでは、田植えが赤とんぼのためにもなっていたことなど、考えもしませんでした。いわば無意識に赤とんぼの生を支えていたのです。もっとも支えるという言い方も気づいた後の表現ですから、原初の感覚は無意識に同じ世界でつながっていた、というようなものかもしれません。
 次に、前回の話しにつなげるために「田まわり」という田んぼの仕事をもちだしてみましょう。田んぼの稲や水を見て回る仕事です。近年、この仕事は、ITCによって、百姓の手から離れていきそうな(技術革新されそうな)雲行きですが、これこそ「農の本質」の破壊の典型事例なのですが、議論が分散するのでこれは後日くわしく論じることにします。
 百姓は意識的に稲と水を見ているようにみえます。しかし、田んぼに到着して、最初に感じるのは、田んぼの世界の雰囲気です。「何かおかしい」と感じることがあります。そういう時には、普段とは違うことが起きているものです。たとえば、水が切れていたり、稲に病気が出始めていたり、猪が田んぼに入っていたりするものです。
 ある年のことでした。田んぼに行くと、異常な気配がするのです。一枚の田んぼだけ、うっかり水が切れていて、お玉杓子が干上がって、白い腹を見せているのです。あわてて、上の田んぼの水口を全開にして、水を注ぎ込みましたが、手遅れでした。(あえて数値を示すなら、10アールで20万匹のお玉杓子が死んだのです。)この時に、あらためて、はっきりと、私は田まわりの時に、無意識にお玉杓子も見ていたことに気づいたのです。
 それまでは自分の「田まわり」の仕事が、お玉杓子の命を支えていることを意識することはありませんでした。お玉杓子が田んぼで泳いでいるのは、あたりまえのことで、「今年もまた生まれているな」と意識することもありましたが、とくに人に語ることでもなく、まして田まわりや農業技術との関係を意識することはありません。ほとんどの百姓にとってもそうです。
 ところが、異常事態の時に、それまで無意識であったことが、意識化されるのです。無意識に見ていたことが、「気づかれる」からです。

5、無意識のありか
 無意識とは、意識されて(気づいて)はじめて「無意識だった」と知れるのです。したがって、意識化(気づき)がなければ、そのまま過ぎ去って、なかったように思われてしまうのです。小浜逸郎は、無意識の世界に気づく契機を三つあげています。(1)時間:無意識の世界に追いやって忘れていたことを思い出すことがあります。「ああ、そうだったのか」という気づきは、時間が経ってからやってくるものです。(2)他社性:その気づきはむしろ本人よりも他人によって、気づかれることが多いものです。「何か、体調がわるいのではないですか」と他人に言われて、自分では気づかれないようにしていたのに、無意識に顔の表情にでていた、というようなものです。(3)身体性:自分の身体の働きは、普段は気づきにくいものですが、異常があると気づくことがあります。手植えをするときに左手の指の動きなど意識することはないのに「虫に刺された薬指が気になって、苗送りが遅くなっている」と意識し、苗を送る左の指の動きをたびたびチェックしたりするのです。(ちなみに、わが家では苗代の苗を、7日かけて手植えしています。)
 ところで、異常事態によって百姓仕事の隠れていた役割に気づくのは、上のどのケースにあたるでしょうか。たぶん下條信輔が『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書1999年)で言っているように、無意識とは意識の周辺部にいくらでもあるもので、何かのきっかけで、意識でとらえることができるものになるのでしょう。
 問題は、この無意識を百姓仕事に限ってでもいいから、意識化する方法を見つけられないか、ということです。なぜなら、無意識に注目して意識化することができれば、新しい農業技術論が提案できるだけでなく、「無意識の天地自然観」を表現することによって、「農の本質」に迫ることができるからです。
 稲のために水をためる仕事は、決して偶然ではなく、たまたま結果的にそうなっているのではなく、まして自然現象ではなく、また人間が係わっていない田んぼの機能ではなく、お玉杓子の生を感得して来た伝統的な天地自然とのつきあいが無意識に働いているからです。そういうように理解することで、「農の本質」が見えてくるのではないかと感じます。

6、農業技術の狭さ
 この無意識の仕事世界の奥深さ、広大さに比べれば、「農業技術」はあまりに狭く、時代の価値観に従属しています。それだけではありません。「技術」はあくまでも意識化された世界のことだけです。
そこで、逆説的ですが、武谷三男の技術の定義がよくできている理由が判明します。
「技術とは生産(実践)過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」
つまり、技術とはあくまでも人間の意識下にあるもので、その意識も科学的で合理的なものでなくてはならないのです。どこまでも人間が主役であるというところに、近代の特徴がよくでています。
しかし、私たち百姓は技術を行使しながら、科学的な法則性の適応を意識し続けているでしょうか。そんなことはありません。百姓仕事の中では、技術を行使していても、法則性など忘れてしまって、仕事に没頭してしまうことが多いでしょう。つまり意識した技術を身につけると、無意識のうちの体が動くようになるのです。むしろ無意識の世界の上で、意識的な技術が利用される、というようなものでしょう。これは「百姓仕事に農業技術を組み込む」と言い換えてもいいものでしょう。
 なぜ、こうした事態になるのでしょうか。その理由は二つ考えられます。
 まず一つめは、伝統的な百姓仕事の世界は、たしかに前近代の天地観を濃密に引き継いでいますから、主役は人間ではなく、天地なのです。たしかにそこに「天地の則」が働いていることも事実ですが、それは決して人間が把握した「自然法則」ではなく、天地の則を人間が推測するだけなのです。(ついこれまでも使ってきた「伝統」という日本語は、明治期に造語されたことでも分かるように、近代化に対抗するもう一方を指すもので、近代を意識しないと使えないものなのですが、現代ではそれも失念されています。)
 このことは深刻な反省を私たちに突きつけてきます。科学を駆使して研究開発されてきた農業技術では、天地のことはごく一部しか扱えないのではないか、という反省です。稲作技術に、お玉杓子を育てる技術を組み込むことは不可能ではないでしょう。たしかに「環境保全型農業技術」というものが形成されつつありますが、あくまでも現代の研究者や百姓がつかんでいる意識化にある狭い世界でのことです。しかも、さらに事態を悪化させているのは、次ような事情です。
 現代の農業技術はあくまでも、現代の農政の方針に沿った「生産性をあげる」枠組み中で組み立てられています。たとえば農政が推奨している、畦に黒いマルチを貼る技術などは、除草剤は使用しないかも知れませんが、畦で生きていた生きもののことなど、眼中にありませんし、田んぼの風景の破壊になることなど、考えることもないのでしょう。百姓は無意識に田んぼの風景を毎日見ています。畦に咲く、四季折々の野の花に惹かれることは、たしかに他人に公表・表現することはなく、すぐに忘れてしまうことですが、百姓の「美意識」を無意識に育んできたものです。そういう視点が、現在の環境保全型農業の多くにはすっぽり欠如しています。
 さて、お玉杓子を育てるために、お玉杓子の餌となる植物性プランクトンを繁殖させるために、代かきの水をできるだけ捨てずに、田植え後三十五日間、一時も水を切らさないように気をつけて、成体となった蛙のための餌にも留意をする技術は形成可能ですが、蛙への「環境支払い」が実施されていない日本国では、確実に生産性を落とします。したがって、そういう技術を行使するのは、個人的な情愛の発露にすぎないのです。これでは普及しません。
 それにもまして、百姓には「そういうものは技術で保全するものではない」という感性があります。天地の諸相は、天地のめぐみとしてもたらされるのであって、人間が意識的に技術で形成していく(保全する)ものではない、という感覚です。
 そこで百姓に「では、どうして保全していくのですか」と問い詰めてみましょう。ほとんどの百姓は、答えに窮します。なぜならそれは「意識下」にないからです。無意識に天地の則を外さずに百姓仕事に専念しておれば、道を踏み外すことなく、天地のめぐみは保全されるのです。この場合の天地のめぐみとは、天地有情の感慨であり、有情の生であり、有情で満たされた風景であり、天地そのものでもありうるのです。
 たとえば田んぼの畦を毎日歩くから、よく踏みしめる中央部には大葉子や力芝、雄ひ芝などが繁り、外側のよく乾く部分の畦には、あざみや金鳳花、菫、嫁菜が咲き、田んぼ側の湿った畦には、蛭蓆や日照り子、高三郎や大地縛りが咲くのです。でも、そんなことは他人から(私から)言われてはじめて気づく百姓がほとんどです。無意識の世界で感じているだけなのです。
 さらに、もうひとつの理由は、百姓仕事で使う百姓の身体に宿っています。技術の対象(たとえば稲)は、私の身体の外側にあります。しかし、稲を植える私の身体は、私のもとにあり、対象化できません。いわば無意識に動いたりするものです。仕事がうまくいけばいくほど、私たちは仕事をしている身体を意識しなくなるものです。
 技術は百姓の身体から切り離すことができますが、仕事は切り離せないのです。しかも百姓仕事の場合は、この身体が天地自然とつながっていて、生きものへの配慮は無意識に身体に蓄積しているとしか思えないので、身体から切り離された(近代の)農業技術では、天地有情の世界を扱えない、と言うべきです。
 それにしても、農業技術と百姓仕事との関係は悩ましいものです。私も簡単に「農業技術を百姓仕事に組み込む」と言ってしまいましたが、技術と仕事の関係は、あらためて別の機会に論じるつもりです。

7、無意識の世界を意識化する方法
 いくら私が、百姓は無意識に生きもののこと、田んぼの天地を見てきたのだ、と言っても、すぐに「無意識であるなら、それが事実かどうかすらわからないだろう」と揶揄されます。それならと、私たちが考えたのは、「無意識の世界を意識化する方法」を編み出せばいいということになりました。そこで(というか、結果的にそうなったというべきなのですが)開発に励んだのが「生きもの調査」の方法だったのです。
 私は最終的には、生きもの調査で目覚めた意識(まなざし)を、日常の百姓仕事の中に組み込んで欲しかったのです。その成果は確実に上がっていました。生きもの調査を学んだ百姓は、田んぼに行く回数や時間が長くなり、普段の百姓仕事でも、生きものへのまなざしが意識されるようになっています。また、家族や村の中で生きものについての会話が多くなったという成果も報告されています。
 先日も数年前にわが家の生きもの調査に参加した近所の子どもの兄弟三人が、自分の家の田んぼをのぞき込んでいました。通りかかった私が、車窓から「何かいるのか」と問うと、「兜海老がいる」と答えました。この現代日本国では、こうしたささやかな成果を積み重ねていくしかないのです。
 生きもの調査で、私が危機感を募らせたのは、生きものの減少ではなく、百姓の無意識のまなざしとでも言うべきものの行方でした。
あるときに六十歳ぐらいの百姓が生きもの調査が終わった後で、「太鼓打ちを30年ぶりに見た」と告白していました。彼はその後で「おれは30年間、何を見てきたのだろうか」と言いました。
彼は、三十歳から六十歳までの間、ほんとうに太鼓打ちを見なかったのでしょうか。無意識には見ていたのかもしれません。しかし、彼は太鼓打ちの名前を知っていました。そして彼は三十年後に、また意識的に見たのです。これからは見るでしょう。
 ところが、私たち世代から下の百姓は、太鼓打ちの名前を知らない百姓が増えています。無意識にも、そして意識的にも見なくなっているのではないでしょうか。生きもの調査を百姓仕事として広めようとした農と自然の研究所の活動は、時代の頽廃を見据えていたのです。
たしかに、無意識の技術などはありません。しかし、無意識のまなざしに目もくれない農業技術は天地自然に深い傷を残していっています。そして、そのこと自体に気づかないようになっていくのです。

宇根豊「連載」

農の精神性
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農は天地に浮かぶ大きな舟なんだ

12回 農の本質への道

 前々回の10回で、なぜ人間が自然に惹かれるかの結論を書いてしまいました。少し急ぎすぎた気がするのは、私たち日本人は(百姓も)「天地自然や農の本質を語らない」という事実(伝統)を、もう少し問い詰めていけば、もっと深く表現できるのではないか、と感じているからです。なぜなら、これだけ農が資本主義の土俵の上に乗せられてしまうと、そのこと自体を(他の産業と同様に)当然のように思い、疑うことをしない日本人が圧倒的多数を占めるようになったからです。いわば「農の本質」が見失われているからです。農の本質を抜きにして、天地自然の本質は語れないと思うからです。
 私たち百姓も「農の本質」ではなく、農業の現実や現象、自分の危機感や怒りによって、資本主義や貿易自由化や近代化農政に反論しようとします。そうすると「資本主義の本質」を問うことを忘れてしまい、まんまと資本主義の土俵に乗ってしまうのです。TPP反対運動も例外ではありません。こういう道すじではなく、もうひとつの思考や思想の道すじをつくれないかというのが私のねらいです。そこで、あらためて「農の本質≒天地自然の本質」を訪ねる思索の旅に出ましょう。

1、「本質」という発想

 「農の本質」という考え方を普段の私たちはすることはありません。なぜなら、久しく絶えていたからです。ただそれは、決して空理空論ではなく、思想的な武器であり、新しい農の表現を生みだす可能性があります。
農も、資本主義的な発達(産業化)を追求すべきだという考え方は、もう百年ほど前から唱えられていますが、未だに達成されていません。だからこそ「農業の成長戦略」が、現政権でも農政課題の主軸になっています。考えてみると、これは奇妙なことです。農には経済成長をはばむ何物かがあって、資本主義的な発達をこばんでいるという見方が成り立ちます。このような発想こそが、「農の本質」を求める思考から出てきたことを、知っておいても損ではありません。昭和初期に、このような発想をしていた百姓が、この日本にいたのです。
 その代表的な論客である茨城県の百姓・橘孝三郎の発言は、前回でも紹介しました。とくに「農の本質は、資本主義の本質と合わない」という主張は、現代でもとても新鮮です。なぜなら私たち、よりよい農業技術を求めながらも技術の本質を考えることはほとんどありません。いい技術が百姓仕事に組み込まれることを願いながらも、百姓仕事の本質を考えることもありません。もっとも、何が「農の本質」なのかと考えたもないでしょう。(さらに資本主義の本質が何なのかとも考えないものです。)
 その理由はいくつかあります。
 Ⅰ:そもそも私たち日本人は、そういう思考法には馴染んでいません。しかしそれならば、私たち日本人は本質ではなく、別の何を見つめて、何を大切にしてきたのでしょうか。
 Ⅱ:近代になって、本質追究は科学的な真理探求で代替されてきた、という回答もあり得ます。しかし科学的な手法は現象と対象に焦点をあて過ぎて、さらに本質から目をそらす結果をもたらしました。
 Ⅲ:そもそも「農の本質」というような発想は、いつ、なぜ生まれたのでしょうか。なぜ必要になったのでしょうか、それが伝わっていないのも理由の一つでしょう。
 Ⅳ:したがって、「農の本質」を見つける「学」や「方法」が、日本にはありません。
 Ⅴ:そこで、今回は前回と少し重なるところもありますが、「農の本質」の探し方を提示し、「農の本質」の表現を試みることにします。


2、百姓の感覚

 私が40歳代の前半の頃でした。赤とんぼ(精霊とんぼ)が田んぼで生まれていることを、百姓の大半は知らないことに驚いたのです。「そう言われれば、そんな気がする」という百姓もかなりいましたが、「あんたから初めて聞いた」と反応する百姓が大半でした。これでは、百姓が赤とんぼを育てているのだと主張し、農業が自然を守っているのだということを、国民に伝えて行くことは不可能ではないか、と意気消沈しました。(その後書いた『百姓仕事が自然をつくる』(築地書館)には、副題に「2400年めの赤とんぼ」とつけたぐらいです。)
 私は赤とんぼ(精霊とんぼ・盆とんぼ)の生態を(科学的に外から)調査研究しながら、いつも「なぜ百姓は赤とんぼで生まれることを知らなかったのだろうか」と(内からのまなざしでも)考え続けてきました。
 そこで、赤とんぼが田んぼで生まれていることを、百姓が知らない理由をまとめてみましょう。
 (1)それが、あたりまえにいつも存在するものだから意識的に見ていない、というのがもっとも普通に考えられる理由でしょう。
 (2)その「本質」をつかもうと、つかまえないとにかかわらず、それは出現するものであって、いわば「自然現象」だと思われているのです。
 (3)つまり赤とんぼの「本質」をつかまなくても、困ることはないのです。
 (4)むしろ、赤とんぼが群れ飛ぶという現象をしっかり見つめて、この世界で一緒に生きていることを実感すれば、それがすべてだと感じているからです。
 しかし、こういう(1)~(4)ではいけないという意識が、私には生まれていたのです。そこでさらに私の30歳代前半の思い出を語りましょう。

3、減農薬運動をふりかえる

 私は1978年から「減農薬運動」を提唱し、百姓とともに実践してきました。なぜそれほど熱心になったのかというと、科学的な(近代的な)農薬という手段が、百姓の「主体」を疎外してしまうことに気づいたからです。農薬の残留や、環境や人体への悪影響よりも、百姓の「精神」へ影響の方がはるかに深刻だと感じたのです。減農薬運動の核心は、ここにありました。技術の「主体」を問い詰めたのです。だからこそ、百姓の「主体」をとりもどすための道具(方法)としての「虫見板」も運動の中で、篠原政昭という百姓によって発明されたのです。
 農薬使用技術に代表される近代化技術は、農の大切なもの(百姓の精神=主体)を根本的に壊そうとしているのに、そのことに気づかない農学や農政や時代精神が許せなかったのです。いま振り返ると、それは「農の本質」を軽視し、テクニックばかりを重視する日本人の習性への気づきだったような気がします。新しい手段(技術)が「農の本質」へどのような影響を与えるか、などとは考えない習性のことです。
(※このように現代ではもう使わなくなった「主体」という近代的な用語を、当時の私は多用していました。技術論争の余韻があったのです。)
 百姓が自らその行使の適否を判断できないし、ましてや環境への影響などは把握できない農業技術が平気で普及されていくのことに、私は異常なほど嫌悪感を抱いていたのです。もちろん私に生来の近代化批判の性分があったことも事実ですが、深いところで近代化を問い詰めていく習慣が、百姓と農学の側にないことに唖然としたのです。この時期の私の確信は、百姓の感覚・判断力・主体・経験こそが、技術の中に具備されるべきだというものでした。いま思えば、「農の本質」に目を向けていたのでした。(※この感覚は、やがて「土台技術」論に結実していきます。)
 さらに私はその後、虫見板によって、害虫・益虫・「ただの虫」という分類を発見し、百姓の自然環境へのまなざしの復活と強化に向かいました。「ただの虫」とは、たぶん農業分野で、はじめての近代的な「世界認識」の扉をこじ開ける概念となったと思います。そして49歳で県庁退職した後「農と自然の研究所」に拠って、「生きもの調査」の方法を開発し、「田んぼの生きもの全種リスト」を作成する過程で、近代化される前の百姓の方が多くの生きものの名前を呼んでいたことに気づき、同時にその名前の多くが「ただの虫・草」であったことに愕然としたのです。
 つまり近代的な世界認識とは別に、前近代には別の世界認識があったことに気づいたのです。それと同時に、そのことを気づかなかった自分の限界に目覚めました。この世界認識=天地自然観こそが、「農の本質」の表現だというのに、だれもそうとは気づかないことにも、また心底驚いたのですた。
 このような内からのまなzしによる、天地自然と人間の関係(世界認識)を、外からのまなざしの刺激によって(意味づけによって)表現する時に、それは「農の本質」だと、気づかれるものなのです。それを自覚することは、案外難しいことなのです。


4、農の専門家の責任と役割

 かつて私は農業改良普及員という「農業専門家」でした。現在は百姓ですが、まだ「農業専門家」でもあります。百姓と農業専門家の違いは、百姓はもっぱら内からのまなざしで世界を見ますが、専門家は外からのまなざしを主として用います。そして専門家の役割は、百姓のまなざしでは見えない、見えにくいモノを提供することです。そのモノの代表が科学的な技術や方法や知見でしょう。それだけなら、べつにわざわざ百姓以外に「専門家」を村々に配置する意味は、もうこれだけ近代化・資本主義化が浸透した日本国では、ないでしょう。(さらなるグローバル化を推進することが専門家の主たる役割なら、これはとても危険な存在です。)そこで私は、もうひとつ専門家の役割として、「本質を見きわめる方法=学」の普及を付け加えたいのです。その必要性を説明しましょう。
 (1)「農の本質」を百姓は考えないのではなく、十分に感得してはいるのだが、言葉にしないだけではないか、とある時に思いあたりました。「人に語ることではない」というような感覚です。
 言葉にするときというのは、口頭で相手に伝えねばならない時、とても感動した時、そして何かを「書く」時です。この「書く」という行為が重要です。とくに考えたことを「書く」ときに、じつは言葉で考えていることに気づきます。私たちは普段考えているときは、言葉で考えていることを意識しませんが、「書く」ときにふと意識してしまいます。うまい言葉が見つからないときには、とくにそうです。書かれたものを読む時もそうで、言葉を通して考えて、読み取っています。
 (2)現代は資本主義が農の表層を覆ってしまっています。農も限りない生産性を求められ、百姓も必死で時代に置き去りにされないように、その要求に応えてきました。農業も成長産業になれるんだと吹聴され、農産物の輸出戦略が進められ、AI技術・ICT技術の普及や、翅のない天道虫の育種、遺伝子組み換え作物の育種まで取り組まれ、資本主義は農の隅々まで浸透しています。しかし、こういう事態を「農の本質」の破壊だととらえる視点は、ほとんどありません。
 農の経済価値についての議論はもちろんのこと、多面的機能という現象について議論ですらある種の思考停止に陥っています。もっと深く降りて行って、「農の本質」までつかむ思想を紡ぎ出せないものでしょうか。
(3)つまり、農の専門家とは、「農の本質」を表現する(書く)責任と役割を担っているのではないだろうか、いやそれは専門家の定義に含ませなければならないのではないか、と考えるようになったのです。もちろん、現代では百姓こそが、「農の本質」を表現し、農を資本主義の荒波から守って、後世伝えていくために、必要だからです。農の専門家の力が必要だからです。

5、日本人の特質を超えていく

 「相良亨著作集第6巻自然・超越」の『「おのずから」としての自然』を読んでいて、次の一節に目が釘付けになりました。

 「中国及び欧米の関係語と比較する時、日本の「おのずから」としての自然が、本性・本質、あるいは秩序の意を持たず、ただ「おのずからなる」こと自体を内容としていることは、極めて注目すべき特色である。」(下線は宇根)

 前回も紹介しましたが、溝口雄三によると、この「自然」という中国語は、戦国時代末期に道家によって造語されたそうです。老荘思想家の造語の目的は、「自然」という言葉で「全体世界の筋道」「全体の正しい関連」「本来的な正しい在り方」を表したのです。
それが日本語になったときに、「おのずからなる」「おのずからしからしむ」とも読まれ、「自然な」「自然に」「自然の」というように使われてきたのです。つまり、日本語の「おのずから」としての自然は、中国語の「自然」のように、本性・本質・秩序の意味を持たず、ただ「おのずからなる」こと自体を内容としています。私たち日本人は、自然の本性・本質が「何であるか」を問うことがありません。それは問いようがないものです。おのずからなるものだからです。
 それまでの私は、老子や荘子の使っている中国語の「自然」は、そっくりそのまま日本に輸入され、日本語の「おのずからなる」と同義であるものだと思い込んでいました。
私たち日本人には、この「自然」という言葉が、じつは老荘思想を強化するために造語された思想用語だったとは、まったく想像すらできません。私たちが使ってきた日本語の「自然」には、「ものの本性・本質あるいは秩序」の意味が含まれていない、ということに、私たち日本人は気づくことはなかったということです。
私たちは天地自然を見て、「自然な」「自然に」「自然の」と感じる時には、「おのずからなる」ものとして、そこに法則性や本質を探そうとはしません。それは「おのずからなる」ものですから、おのずから動いているのであり、それを動かしている正体や力が別にあるとは考えるはずがありません。つまりそれが。どうして「自然な」「自然に」存在しているのか、世界の中でどういう位置にあるのか、などとは考えないのです。これは天地自然をその外側から客観的に見るのではなく、そのまま受けとめるからだと言えるでしょう。
赤とんぼが飛んでいる場面に戻ってみましょう。私たち日本の百姓のほとんどは(たぶん百姓以外の人のほとんども)、その赤とんぼは自然に生まれて自然に飛んでいるのであって、この赤とんぼはなぜここで飛んでいるのだろうか、どこで生まれたのだろうか、この赤とんぼの存在にはどういう価値と意味があるのだろうか、赤とんぼはこの世界とどのように関わりどのように支えているのだろうか、などとは考えません。赤とんぼは毎年自然に生まれ、いつも自然に飛んでいるし、それは「自然な現象」です。自然とはそのように、おのずから生まれ、おのずから動き、おのずから消えていくものだから、それ以上のことを詮議する必要などどこにもないものだ、と思っているのです。
しかし、赤とんぼがおのずからそこに存在するのは、成り行き任せではなく、赤とんぼ自身が「自然(みずからしかる)」の存在だから、そういう出現をするのでしょう。そこには、本質や法則性や秩序があり、それを問い詰めることも可能です。(科学は、別の方法でそれに迫ることができますが、それは後述します。)しかし「日本人はそうはしなかった」と言われてみると、そうかも知れません。しかし、それで困ったことは(これまでは)なかったのだから、別にそうしなければならない必要性も(いままでは)ありません、というのが私たちの感覚なのです。

6、農の「本質」という発想

 
くどいようですが、現代の百姓や農業の専門家たちは、「農の本質」を考えようとしません。たとえば、TPPに代表される経済のグローバル化は資本主義の発達(延命)のための有力な方法だと言われています。それに反対するにしても、農業経営が破綻する、農産物価格が下がる、国内農業の経済的な打撃が大きい、多面的機能が損なわれる、というような反論ばかりで、「農の本質が損なわれる」という意見はありません。つまり、現象面での危惧は具体的に語れるのですが、本質への影響には言及されることがないです。
 そもそも「農の本質とは何か」という議論がほとんどなかった日本国のことですから、これは当然なのです。したがって、それだからと言って、とくに問題があるという認識すらもありません。したがって昭和初期の農本主義者の「農は資本主義にあわない」という気づきは、資本主義の勃興期の資本主義に対する違和感や対抗心や嫌悪感の現れであって、農の本質が破壊されるという危機感だと受けとめられることは、まったくありませんでした。
 しかし、資本主義の爛熟期(末期)を迎えて、未だにその程度の認識であってはいけないでしょう。ではなぜ、昭和初期の農本主義者だけが「農の本質」というものに着眼できたのでしょうか。彼らはその必要性を、はじめてしっかり自覚した日本人だったのです。橘孝三郎はこう言っています。

「百姓が抱かれている天地自然のふところは深く、いくらきょろきょろ見回しても、交換価値という資本主義的な尺度は見当たらない」(『日本愛国革新本義』昭和7年)

つまり彼は、天地自然の内側から資本主義を見つめたのです。そして体で感じる違和感の正体を突き詰めようとして、天地自然を経済価値などでは見ていない百姓の本心を、発見して言葉にしたのでした。なぜならそれこそが、もっとも百姓らしい感覚だと(内からのまなざしで)感得し、それを(外からのまなざしで)言葉にすることができた百姓だったからです。この二つのまなざしが交差するところで、「農と資本主義の本質が相容れない」と、表現することができたのです。昭和初期の農本主義のリーダー達は、当時では珍しく、内からだけでなく、外からのまなざしを持ち合わせていたのです。彼らは高等教育を受けていたので、外からのまなざしも身につけていましたが、外からのまなざしに圧倒されることがなかったのが特徴です。
 これまでの農本主義の理解は、「資本主義の発達によって没落していく百姓の側の危機感をあおり立て、国家に救済を求めさせようとした運動」という理解がほとんどでした。決して「農の本質が破壊される」という言説が注目されることはありませんでした。農本主義の読み間違いは、べつに丸山真男だけではなかったのです。


7、本質の表現

 
ここで「本質」とは何か、をおおまかに定義しておきましょう。なかなか「本質とは何か」などと考える習慣がない私たちのなので、敬遠したくなりますが、難しく考えることはありません。
 それがなければ、農が成り立たない「基本的な(根本的な)性質」です。それは、個人の感覚を超えて、時代を超えて、農一般に広く共感・共有できる「基本的な(根本的な)性質」ということになるでしょう。農耕とは、日本列島でも1万年の歴史があるという説もありますが、そこまで遡るよりも、ここでは他産業にはない農独特の性質・性格・基本構造・魅力であることに着目するほうが、探しやすいでしょう。
じつは「農の本質」などという言葉を使ってはいませんが、これまでも百姓は様々なスタイルで「農の本質」の周辺を語って、書いているのです。それは外から、誰か他人から与えられるものではなく、一人一人が百姓仕事や百姓ぐらしの中から、内からのまなざしで感じとって、確信したものなのです。しかし何度も言うように、なかなか表現しようという気持ちになることがないモノなのです。
 それに表現を与えるように促すのが、外からのまなざしなのです。かつての農本主義者にとって、その契機となったのは、資本主義の発達によって窮乏して農村の現実でした。現在では、成長戦略によって、荒廃していく村と農地と自然環境の危機が契機となるでしょう。
しかし「危機感」だけでは、本質表現は生まれてきません。大切なモノを伝えようとする気持ちがわき起こらなければなりません。言葉にして伝えようとするとき、書き付けておこうとするときに、本質が姿を表します。
 近代化される前の百姓は、田畑や作物や天地をよく見ていました。現代の百姓よりも深く見ていたと断言してもいいでしょう。しかし、そこに「法則性」を見つけようとは思いませんでした。しかし、次のような発言に接すると、法則よりももっと深いもの、つまり「農の本質」が表現されていると言っていいでしょう。
「百姓は、稲をつくらず、田をつくる」という昔から言い習わされてきた寸言には、天地自然と百姓の関係の本質が表現されています。「稲植えと言わずに田植えという」「つくるのではなく、とれる、できる、なる」「稲の声が聞こえるようにならないと一人前ではない」のように百姓の様々な発言が教えてくれているのは、どうやら「農の本質」は百姓仕事の中の、天地自然との関係にあるという示唆ではないでしょうか。

江戸時代の百姓・宮崎安貞は『農業全書』の冒頭で、次のように書いています。

「それ農人耕作の事、その理(ことわ)り至りて深し。稲を生ずるものは天なり。これを養うものは地なり。人は中にゐて、天の気により、土地のよろしきに順ひ、時を以て耕作につとむ。もしその勤(つとめ)なくば、天地の生養(せいよう)も遂ぐべからず。」

 天地が生きものを育てるのであって、人間ではない。しかし百姓が天地に従わなければ、天地の力は現れない、という意味です。百姓にとっては、「こんなの常識だろう」と思いますが、これを言葉にした農書が現れたことは画期的なことだったのです。この百姓にとっては、「常識」つまりあたりまえのことであることが、さまざまな形で表現されてきたことは、もっと注目されていいことです。
宮崎が言うことと同意だと思えるのは、全国どこでも耳にしていた「百姓は稲をつくらず田をつくる」という百姓発の寸言です。しかし、この発言に田畑と人間の関係の本質を読み取ることは案外難しいことです。さらに現代では、こうした発言すらが顧みられることがなくなっています。時流に乗った外からのまなざしだけで農が表現され、評価される少し前までは、まったく違う表現が人々の心をつかんでいた時代があったことを忘れてはいけないでしょう。
 百姓につくれるのは作物ではなく、田(の土)でしかないのです。しかし、現代ではほとんどの百姓が「(作物を)つくる」と平気で発言します。橘孝三郎の「天地のめぐみは、農を本としてしてしか受け取れない」という発言は、「農本」の再定義を図る意図があるとは言え、いかに農本主義者が百姓らしい感覚を大切にし、それを必死で表現しようとしていたか、がひしひしと伝わってきます。昨今の「農業は食料を生産する産業として重要だ」という現実のうわべだけを撫でた常套句に比べると、しっかり基本的な本質をつかんでいます。


8、本質の探し方

 しかし、「農の本質」をとらえるためには、内からのまなざしと外からのまなざしは、どのように出会い、どのように交わり、どのように表現に結びついていくのでしょうか。西洋から来た科学の観察が精緻なのは、観察する対象は「自然に」あるのではなく、その中には、必ず何らかの法則性が貫かれているはずだという自覚があるからです。その法則性を「農の本質」として表現できないものでしょうか。
 私は、日本中で生まれている赤とんぼは多い年には200億匹になること、その99%は田んぼで生まれていることを明らかにしてきた。そして、あるときに、代かき前から田んぼの上で(東南アジアから飛来して)飛んでいて、産卵を待っている赤とんぼを見たときに、「そのために、田を植えさせる、赤とんぼ」という句を詠みました。「そのために」とは赤とんぼの産卵の準備のため」という含意です。田を植えるのは、稲のためだけではなかったのだ、まして人間のためだけではなかったんだ、という発見によって、これらの赤とんぼが毎年生まれて群れ飛ぶのは「農の本質」の現れだ、と確信したのでした。
 たしかにこれは、科学的な観察・調査の成果であるかもしれません。赤とんぼを対象化して、客観的に見る見方を身につけたからこそできたことかもしれません。しかし、私ははっきり自覚します。私が赤とんぼに着目したのは、科学とは別のまなざしが幼い日から引き継がれているからである。少年の頃、赤とんぼに囲まれて育ってきた内からのまなざしをいつも動員しているからである。それを自覚させたのは、科学的な法則ではなく、内からのまなざしに表現を迫る外からのまなざしである「学」であった。「法則」だけでは、決定的に足りないのです。その証拠に、私みたいな着目と表現が、農学と自然科学からは出てきていません。
武谷三男の有名な技術の定義とは、「技術とは生産(実践)過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」というもので、私は技術の定義の中では一番よくできていると思います。この定義では、赤とんぼを育てる技術も形成できることになります。赤とんぼを生産物と定義し、赤とんぼが育つ生態系と生命現象を科学的に解明し、それを整える条件を明示していけばいいのです。しかし、「環境の時代だ」と言われながらも、農業技術がこういう方向に進んでこなかったのは、単に「日本農政の狭量さ」ではなく、深いところでこういうアプローチに対する伝統的な違和感と嫌悪感があったことに気づくべきです。
 それは作物はもちろんのこと、田畑の生きものや風景は、人間の技術によって合理的に「つくる」ものではなく、天地の力によって「できる」「とれる」「なる」ものであって、人間はただその天地のめぐみが豊かにもたらされるように、ひたすら手入れにいそしむという伝統的な「天地観」と「仕事観」が体に染みついているからです。もちろんこの感覚は「共同体的」なものであり、個人的な感覚ではありません。
 したがって、「赤とんぼを育てる稲作技術は存在しないが、それでも田んぼで生まれて育つのは、赤とんぼを育てる百姓仕事が行われているからだ」と言うべきなのです。それでは、技術で育たない生き物たちを仕事はどのように育てているかを、理論化してみましょう。たしかに代かきするから、赤とんぼは暖まった水で、しかも干上がらない水で、さらにヤゴの餌のプランクトンが一斉に生まれてくるので、安心して産卵することができます。さらにに百姓が田まわりをして、35日間水を切らさないので、ヤゴは赤とんぼに羽化できます。しかし、代かきは田植えのためにしているのであって、赤とんぼのためにしているのではありません。田まわりは、稲のためにしているのであって、赤とんぼのヤゴのために水をためているのではありません。その証拠に、田植え後15日から「間断潅水」や田植え後30日からの「中干し」が、科学的な害虫対策技術として、あるいは科学的な増収技術として推奨されているのですから。
 さてこの難題をどう解決したらいいのでしょうか。百姓の内からのまなざしに着目してみましょう。百姓は田まわりの時に、(無意識に)水の中の生きものにもまなざしを向けていいます。その証拠に、うっかり水が干上がって、お玉杓子やヤゴや目高が死んでいると、「すまなかった、ごめんよ」という後悔の念が湧き上がってきます。
 ところが、技術は無意識の(そして共同的な)世界には、手が出ません。百姓の天地自然へのまなざしを技術の中に位置づけることは不可能なのです。そもそもこうした視点が農学をはじめとして近代の学にはありません。じつは、ここからこれまではなかった画期的な技術論が生まれるのです。


第11回 【特別編】
 新しい「農本主義」の目覚め(2016年12月26日)
 
NHK12月16日「視点論点」

 
私は今年も、田んぼの畦の草刈りをしていました。夏になると、田んぼの中のお玉杓子は蛙になって、畦に登ってきます。草刈りしていると、その蛙が驚いて跳びはねます。そのたびに、私は躊躇して立ち止まります。蛙を切り殺したくないからです。蛙が多い畦では、1mおきに一旦停止をくり返しているような感じです。この躊躇している時間を、計ってみるなら、たぶん1日当たり10分ぐらいになるでしょう。この10分間は、仕事の効率を妨げている無駄な労働時間で、削減すべきだ、と言われています。しかし、こういう要求はまともなものでしょうか。
 百姓に限らず現代の日本人は、同じものを生産するなら、短い労働時間で生産する方が優れていると考えてしまいます。生産物を経済価値で計り、労働時間もまた労賃に換算して、生産性という尺度を当てはめるとそうなるのです。しかし、私はこの10分間は無駄だとは思いません。百姓の人生にとっては、大切な時間です。
 もし、私が草刈りの時に躊躇しなかったら、多くの蛙が死んでいくでしょう。さらに私は蛙だけではなく、生きもの全体への情愛とまなざしを失っていくでしょう。
 こういうこともありました。うっかり田んぼの水が一枚だけ、完全に干上がって、その田んぼだけお玉杓子が全部死んでしまいました。その田んぼに入ると、とても寂しいのです。「そうか、私はいつも、お玉杓子に囲まれて、仕事をしていたのか」と初めて気づいたのでした。
 蛙だけではありません。赤とんぼは田んぼで仕事をしていると、必ず私の回りに集まって来ます。私が体を動かすので、稲の葉っぱの虫たちは飛び上がります。それを食べるために集まって来るのでしょう。しかし、まるで私を慕って寄ってくるような気になります。「ああ、今日も赤とんぼと一緒に働いているんだ」という気持ちになります。
 日本で生まれている赤とんぼは、多い年には、1年間で200億匹にもなります。その99%は田んぼで生まれていますが、みなさん、知っていましたか。蛙も97%ほどは、田んぼで生まれています。しかし、田んぼの生産物はあくまでも「米」であって、赤とんぼや蛙などの生きものは、たまたま田んぼに現れる、いわば自然現象なんだ、というのがほとんどの人の印象でしょう。
 しかし、百姓仕事は工業の生産とはちがって、目的としていないものまで、育ててしまうのです。あるいは殺してしまうのです。ここがとても、重要です。なぜ、私が生きもののことから話し始めたかというと、これらの生きものの多くが、減少の一途をたどっているからです。
 百姓に時間的な余裕がなくなり、生きもの命に配慮できなくなっているからです。日本の農業はとても近代化され、進歩・発展してきたように見えます。ところがその反面で、どうしてこうした事態になるのでしょうか。
 このことの本質を、見事に言い当てていた百姓が、もう80年も前にいました。昭和初期のことです。茨城県の橘孝三郎という百姓です。当時はまだ日本国民の約半分が百姓でした。農業の生産額は工業の生産額に追い越されてはいましたが、まだまだ「国富」の多くを占めていました。しかし、農村は極度に疲弊していたのです。多くの百姓は没落し、地主の所有面積は全農地の半分にも、なっていました。
 橘孝三郎は、なぜ社会が近代化され、工業が発達してくると、農業は衰退していくのだろうか、と自分の頭で必死に考えました。そしてとうとう、彼は突きとめたのです。
 「農業の本質は、資本主義の本質に合わない」と。
 橘はその理由を、「百姓は工業とちがって、天地自然を相手に仕事をしているからだ」と言っています。
 彼の洞察はとても深いもので、現代でも立派に通用します。いや現代でこそ、もう一度気づき直さなければならないものです。橘たちの思想は、「農本主義」と呼ばれていましたが、現代では、もうほとんど顧みる人はいません。
 橘は「農本主義」の真髄をこう語っています。
「百姓は作物を作っているのではない。農を本として天地自然のめぐみを受けとっているのだ。」
 たしかに百姓なら誰でも実感することです。作物が育つのは、作物みずからが、太陽の光と空気と水と土とさまざまな生きものの力を借りて、生命力を発揮するからです。そう言えば、かつてほとんどの百姓は、「作物は、つくるのではなく、とれるもの、できるものだ。」と言っていたことを思い出します。
 百姓が相手としている天地自然は、生きものがいっぱいいます。しかも毎年毎年、変わらないからいいのです。ところが、資本主義は経済成長を必要とします。なぜならすべての価値を経済価値で評価し、それを増やすことを原動力としているからです。そのためには、常に生産と消費は拡大していかなければなりません。それが資本主義社会の進歩・発展だとされてきたのです。たとえば百年間同じ暮らしでいいとするなら、資本主義は不要です
 生きものたちは経済で生きているのではありませんし、百年間変わらない自然環境の方が正常に生きられるでしょう。私が蛙に向かって、草刈り機で切られないように、飛びはねる脚力を2倍にしてくれと要求したらどうでしょうか。赤とんぼにヤゴという幼虫の時期には、田んぼの水が切れても死なないように努力してくれ、と要求したらどうでしょうか。生きものたちはたぶん、こう言うでしょう。
 「いつからあなたは、生きものの生の本質がわからなくなってしまったのか」と。
近年では、農業はもっと国際競争力をつけるべきだ、成長産業になるべきだ、という声が大きくなっています。TPPに代表される経済のグローバル化に、農業も対応しなければならないと言われています。
 みなさん、今年、赤とんぼを見かけましたか。何回、どこで、見ましたか。
 経済発展と引き換えに、私たちに見えている天地自然の世界は、どんどん狭く、小さくなって来たのではないでしょうか。
 「農本主義」とは、農が社会の土台であるという思想です。農こそは天地自然のめぐみを、農を本として、土台として受けとることによって、経済価値とは別の価値を、社会にもたらし、人間の情愛の源を守っているという主張なのです。私は、橘孝三郎たちの思想を現代に生かすための「新しい農本主義」を提唱しています。
 現代の農本主義者は、少なくとも農業の半分は資本主義の市場経済から外して、国民全体の力で支えていく仕組みを提案しています。そのためには、これ以上百姓仕事に効率を求めないことです。蛙や赤とんぼや風景を支える、一見無駄に思える仕事を評価することです。そして赤とんぼや蛙や風景を、無償で受けとるのではなく、ちゃんと対価を払ったらどうでしょうか。そうなれば、百姓は経済価値のないものも、捨てずに大事に守り、社会に提供し続けることができるのです。
まちがいなく、生きものたちもまた、そう望んでいるのではないでしょうか。

下線は、テレビの画面で、テロップで流れたものです。
また、下の写真を映しました。
写真1、2:殿様ガエルと沼蛙
写真3:お玉杓子
写真4、5:赤とんぼ(精霊蜻蛉・薄羽黄トンボ)と秋茜
写真4:橘孝三郎(1893~1974年)


第10回 (続々)日本人はなぜ「天地自然」に惹かれるのか
2016年10月10日)

7、「自然」という言葉の来た道

 この伝来の日本語の「自然」は、もちろん中国から輸入したものです。老子の有名な文の「自然」を引いてみます

 「人は地に法(のつと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(『老子』)

これは、人→地→天→道→自然という構造ですから、つまるところ、人は自然に法る、となります。この場合の最後の節の意味は、福永光司訳(朝日新聞社刊)では「道の根本的な在り方は自然ということであるから、道はただ、自然に法って自在自若である。」となっています。私たちは文意を、すぐに理解できるような気になります。ところが、そうではないのです。
溝口雄三によると、この「自然」という中国語は、戦国時代末期に道家によってつくられ、使われ始めたそうです。造語の目的は「天や道によっては、端的に示しえないある観念を指示するため」と考えられています。道家は「万物それ自体の(それこそが真に究極であるとされたところの)自在性・実存性、すなわち天地万物の自己生成・自己運動性を、より際立たせたいという意思が働いたのではないか]と推定しています。そしてこの中国語の自然は「全体世界の条理性」「全体の正しい関連」「あるべき正しい在り方」の意味を包含するのだそうです。
それが日本語になったときに、「おのずからなる」「おのずからしからしむ」とも読まれ、「自然な」「自然に」「自然の」というように使われてきたのです。このズレは案外重要かもしれません。
 日本語の自然(おのずからなる)という言葉が盛んに使われるようになったのは、平安末期からだそうです。ところが、相良亨は『「おのずから」としての自然』(相良亨著作集第6巻 ぺりかん社1995年)の中で、Natureにも「本性・本質」という意味が内包されていることを指摘した後で、

 「日本語の「おのずから」は、本性・本質・秩序の意を含まず、「おのずからなる」という生成の意味を中核とする。(中略)中国の「自然」は生成的意味も含むが、むしろその中核は、自ら然る本来的な正しいあり方にあった。たとえば芭蕉がいわゆる自然を指す造化も、中国においては、天地、天地の理、万物を創造化育すること、またはその神を意味するものであったのに対して、日本では(「季節の変化」と解釈され)芭蕉は「造化にしたがひて四時を友とす」(『笈の小文』)と、造化と春夏秋冬として循環しつつ生成する四時(四季)とを重ねて用いている。これらをみても、日本人の「おのずから」としての自然には、時間的な生成的契機が濃密である。」

どうやら、中国語の自然と日本語の自然(じねん)とは、重ならないところがあるようです。相良亨は欧米語や中国語と比較して、日本語の「おのずから」としての自然が、本性・本質・秩序の意味を持たず、ただ「おのずからなる」こと自体を内容としていることに注目しています。つまり私たち日本人は、自然の本性・本質が「何であるか」を問わないのです。それは問いようがないものです。おのずからなるものだからです。
立川武蔵の比喩は、このことをわかりやすく説明しています。

われわれ日本人は、道端に咲く一論のタンポポを見るとき、その一つの花に宇宙を見てしまう。「その花が、世界の構造の中でどこに位置するか」などとは問わないのである。(『日本仏教の思想』講談社現代新書1995年)

じつは、このことは私にとって、衝撃的な発見をもたらすことになりました。私たち日本人は、とくに自然に生きてきた百姓は、天地(山川草木)や農の「本質」を問う習慣・習性を持っていないという事実を突きつけられるからです。私たちの先祖は、天地(山川草木)もおのずからなるものとして見て来たのですが、それは誰が創ったのか、その本質は何か、そこに正しい在り方があるか、などと詮議することに意味を見いださなかったのです。ただ、おのずからなる生き方、在り方に、あこがれるようになっていったのです。つまり、こういうことを少なくとも前近代の百姓は表現する契機がなかった、ということです。
 それなのに、なぜ私は「自然」や「農」をあれこれと、議論するのでしょうか。その理由を見つけなければなりません。

8、自然へのあこがれ
近代は人間の欲望を全開にしてきました。資本主義の発達は(経済成長)は個人の欲望を全面的に肯定したから達成したことは言うまでもありません。このことは、欲望を手なずけるシステムが弱まったことを意味しています。「質素倹約」「禁欲」「清貧」などは、もう死語に近いでしょう。十年一日のような暮らしは、時代遅れだと決めつけられます。
 農業の世界でも、近年脚光を浴びているのは、無人トラクターやICT(Information and Communication Technology)などの、人間がやる仕事を直接人間が手を下さずにやる技術です。たとえば、田んぼの水管理をICTでやれば、田んぼに行かなくて済みます。決めておいた水位を下回れば自動的に水が流入するようにプログラミングしておけばいいのです。画像も受信できます。これで浮いた労力と労働時間を他の仕事に振り向けることができます。
 また「翅のない天道虫の育種」が注目されています。天敵である天道虫を飛べないようにして、定着させるのが目的なのでしょう。こうした新しい技術はこれまでの農業技術とは、異質なものを含んでいます。これまでは、「省いてはいけない」とされてきたものを、捨て去るだけでなく、そうした禁欲を解き放ち、欲望に変えるからです。
 省いてはいけないとされたものは、農本主義者が口を酸っぱくして言い続けた「作物への情愛」であり「天地自然に包まれる境地」であり「天地有情の感覚」です。「農の本質」だと言い換えてもいいでしょう。田畑に足を運び、自ら手入れをするからこそ、相手へのまなざしは豊かになり、情愛は強くなり、天地自然の力に対する感謝を実感でき、同じ生きもの同士が同じ世界に生きているという充実を得てきたことが、すっぽり見捨てられています。
 つまり、資本主義的な生産性を上げようとする欲望に歯止めをかけてきたものが、とうとう失われようとしているのです。こういう習慣を失うなら、百姓は「自然に生きる」ことが困難になります。こうした危険性に対する恐れが全くないのが、これらの技術思想の特徴です。とうとう農業の近代化は、ここまで来たのです。このことは仕事の喪失にとどまらず、農の本質の亡失になることを一つの寓話で示しましょう。

最新AI(人工知能)装備の無人トラクターが田んぼに入る前に、動かなくなりました。理由は「この田んぼは狭くて、効率が上がらないので、耕作する価値がない」と判断したからです。条件の悪い田畑も誰かが耕作しなければ、村は荒れ果ててしまうことを、このAIは理解できないのです。そこで、「愛郷心」をプログラムに組み込んだら、解決しました。
 ところが、今度の場合はもっと深刻でした。「田んぼが広すぎて、単純作業で面白くない」と言って、無人トラクターが動こうとしないのです。
 持ち主は考え込みました。田んぼを耕しながら、鋤込まれていく草や、逃げ惑う鼠や、耕されて黒く変わっていく土の色に、わが宇宙を感じていたのに、機械にとっては単純労働でしかないのか、とあらためて驚いたのです。
 このAIのプログラマーは、無人トラクターによって、百姓が単純労働から解放されると思っていたのでしょう。ところが百姓はそうは思っていなかったのです。そこで、鳥の声を聞き、村の風景を眺め、土の香りを含んだ風に包まれることを「仕事の充実」だと感じるように、AIを改良してもらいました。
 ところが百姓は、嬉しそうに田んぼを走り回っている無人トラクターを眺めていて、大きな寂しさに襲われたのです。自分は大事なものを機械に譲り渡したのではないかと不安になったのです。
 
百姓仕事の充実感は、その仕事でいくら稼げるかではないでしょう。いつの間にか、天地自然が主体となって、作物本位になって、おのずからなるままに体が動くようになればこそ、自然に生きているという領域に入ることができます。現代人は「自然に飢えている」と言われています。この時の自然は、天地自然でもあり、おのずからなる生き方でもあるでしょう。
しかし、おのずからなる生き方は資本主義的な欲望の肥大化に対して、連戦連敗を喫してきたと言ってもいいでしょう。その原因は、「本来的な正しいあり方」つまり原理や本質を「自然」の中に見いだし、資本主義的な原理に対抗させる気持ちがないからです。そういう発想をすることがないからです。そういう習性を日本人は持っているからです。
 だからこそ、新しいやり方が必要でしょう。私が「農の本質(原理)」を探し続けてきたのは、あるいは農本主義を再評価しようと画策してきたのは、このためです。

9、自然に生きること
たしかに百姓は、「農は自然に生きる生き方であり、それだからこそ人間の正しい生き方になる」などと表現することはありませんでした。では、農本主義者たちは「自然に生きる」というような表現をしていたのか、という疑問に答えておかねばなりません。相良亨がとても面白いことを言っています。

 「日本人の人為・人工は、自然への随順であり、自然のお手伝いであり、あるいは「自然が人工的なものを完成する」という考え方があったことが、芸術活動、なかんずく庭園芸術・陶芸などに関してのべられてきた。」(「おのずからとしての自然」相良亨著作集6巻所収)

うーん、とうなってしまいます。言っていることに異論はありません。しかし、作庭や陶芸などを引く前に、なぜ百姓の「農」のことに言及しないのでしょうか。その理由はただひとつ、農の文献がない(知られていない)からだと思われます。ここで、橘や松田の言葉をもう一度引用する必要はないでしょう。農とは天地のめぐみをいただくための準備です。田んぼという人工的な世界は、田植えさせすれば、天地によって自然になります。
 しかし、農本主義者の特徴というか百姓の特徴と言ってもいいのですが、自らの百姓仕事の本質を「天地自然に抱かれること、一体化すること、自分を忘れること」などとは表現しますが、おのずからなるままに生きるとは言いません。たしかに、すぐに天地を引き合いに出してしまうのは、人生においても自分が主役ではないからです。これは百姓の特徴でしょう。
ですから、これからの農本主義者は、いや百姓はみんな、語ればいいのです。「天地自然に抱かれることは、おのずからなる生き方なんだ」と。
 ここまでくると、じつは天地自然(Nature)に惹かれる理由と、自然な、自然に、自然の、つまりおのずからなる生とは、重なってしまうのです。一応、これを結論としておきましょう。


第9回 (続)日本人はなぜ「天地自然」に惹かれるのか

(2016年9月24日)

4、百姓の姿勢
百姓の(日本人の、と言っていいでしょう)天地自然観を大きく変容したのは、たぶん1960年代だったでしょう。農業技術が「つくる」という視点を百姓に浸透させたからです。それまでの伝統的な「できる」「とれる」「なる」という百姓の感性は、農業生産を「天地のめぐみ」として受けとっているという「天地観」にもとづくものです。ただし、受けとっているのは、田畑や作物です。この場合に、百姓はどういう態度や気持ちを抱いていたのでしょうか。まず橘の言葉を聞きましょう。

 「農業においては、農民の抱ける生産客体への愛護の言葉によって表され得る精神的要素こそは、生産を左右する根本的要因をなすものであり、この精神的要因を無視して農業生産なるものは成立し得ないのである。」(『農本建国論』昭和10年)

彼が言う「精神的要素」とは何でしょうか。それをもっと雄弁に語っている百姓がいます。戦後の九州の百姓でその名を知らない人はいないとまで言われた農本主義者・松田喜一(1887~1968年熊本県)は、私の在所の糸島市にもたびたび講演に来ていました。その主著『農魂と農法・農魂の巻』(昭和26年刊)より引用します。

 農業の相手は農作物である。農作物は天地の力で育つのである。したがって「農作物もまた天地である」。そしてその天地の霊力で育つ農作物を、人間がお手伝いをして育てるから、天地と人間とが農作物を通じて完全に握手をしているわけである。これが農業である。だからこそ「農作物の心がわかる者は、天地の心がわかる者」である。
 それでは、農作物の心はどうすればわかるか、それは「神の技」あるものは、みな農作物の心がわかるのである。作物の前に立てば、作物の訴えが聴こえる。声なき声が聴けるのである。農作物と話ができるのである。これが「入神の技」である。故に我々の職業では「農技を通して天地の声が聴ける」のであり、「天地の御心すなわち農魂」であるから、結局「農技なければ農魂なし」である。

この場合の「農技」とは農業技術ではなく、天地の声を聞く能力であり、農作物と話ができる能力なのです。私は若いころ「稲の声が聞こえるようになれ」とよく百姓から言われましたが、現在ではこういうことを言う百姓は、ほとんどいなくなりました。どうしたら稲の声が聞こえるのでしょうか。
たぶん現代の若い百姓は農作物を対象として、自分の外側に見ています。もちろん観察はしているのですが、農作物と話ができるほど近くまで寄らないのです。もちろん愛情は注いでいるのですが、それよりも労働時間や経済性が頭をよぎるのです。それが「経営能力」なのだから、しかたがないのです。

5、稲や林檎の木になれるか
松田喜一とほとんど同じことを、じつは橘孝三郎も語っていたのです。

 「百姓は百姓が林檎を作るんじゃ駄目だ。百姓はその林檎を作る林檎にならなければいかんのだ。もっと百姓はこのまま大地にならなければ駄目だ。大地に生まれ、大地に育つのだ。だから百姓が大地にならなければ、どうしてうまく育てられるか、それが私の百姓である。」(血盟団時間公判記録の井上日召の証言による。『血盟団事件』中島岳志より)

私は林檎を栽培したことがないので、稲に置き換えてみましょう。稲の声が聞こえるということは、百姓が稲になることでしょう。稲の痛みを我がこととして同情し、稲の喜びを我がこととして嬉しがることでしょう。肥料が足りないと稲が肥料を欲しがっていると感じるのです。決して窒素濃度が下がったから、窒素を追肥するのではないのです。
 「百姓が大地になる」とは、こういうことでしょう。大雨になると夜中でも雨合羽を着て、懐中電灯を持って田んぼに急ぎます。川からの水路が溢れているのではないか、田んぼが冠水しているのではないかと心配になるのです。田んぼと稲が私を呼んでいるのです。
 干魃の年に、バケツで水を汲んでかけている百姓を見たことがあります。ほとんど「焼け石に水」でしょうが、効果があるかどうかではなく、そうせざるをえない心情なのです。まして費用対効果などという尺度は微塵もありません。
松田喜一はさらにわかりやすくこのことを表現しています。

 「農作物が図抜けてよくできつつある。朝起きるとすぐに見に行く。今しがた見たばかりである。一時間や二時間の間にそう変わるものではないことは知りつつも、見に行く。夕方はいよいよ廻り道までして見に行く。このように農作物から魂を奪われ、朝は寝て居れないから早く起き、昼は暇がおしくて遊んで居れないから働く、何処に朝起きが辛いか、何処に働きが苦痛か、これらはみな目的物から心を奪われ、己を忘れて、相手本意になっておればこそである。これが「忘我育成」の「農魂」である。」(『農魂と農法・農魂の巻』)

「魂を奪われる」ということは、現代人でもあるでしょう。作物や田畑を前にして「相手本位になる」ことは、自分本位つまり人間中心ではなくなり「忘我」となるのです。これこそが天地への没入、天地自然との一体となることなのです。

6、自然に帰る
私は昨年の春、農文協から『愛国心と愛郷心』という本を出しました。主題は「愛郷心」を土台にした農本主義によって、愛国心に支えられた資本主義を撃つことでした。私が農本主義に関心を持つようになったのは、橘孝三郎や松田喜一のように農本主義者の「天地自然観」に共感したからです。
昭和初期には、急速に工業が台頭してきていました。(大正時代に工業生産額が農業生産額を上回るようになりました)百姓ですら工業へ、都会へのなびいていく風潮に、農本主義者は危機感と嫌悪感を抱きました。だからこそ、百姓仕事を救い出す思想的な根拠を必死でさがしたのです。したがって、彼らの一番の特徴は、「農とは何なのか」と問いつめていくことです。現代の百姓や農業専門家が忘れてしまっていることです。そして、とうとう「農の本質(原理)」の決定的な答えにたどり着くのです。
 これまで述べたように百姓としては、時を忘れ、我を忘れ、悩みを忘れ、経済など眼中になく、百姓仕事に没頭しているときが一番幸せです。そしてはっと我にかえると、天地自然に囲まれている自分がいるのです。ああ、もう日も傾いている、と気づきます。こういう人生こそがもっとも人間らしいのだと、農本主義者たちは発見したのです。この境地とは、「自然に帰る」「自然に生きる」ということでした。
ここで、「日本人はなぜ天地自然に惹かれるのか」という問いへのもうひとつの深層の答えが顔を出しています。なぜ「自然に、自然な、自然のまま」がいいのでしょうか。じつは、これに対する答えは、もう昔から言い古されてきました。「人間のような欲がなく、悩みがなく、とらわれがないからだ」「没入すると自分をも忘れることができるからだ」というものです。
百姓が生きもの(有情)に惹かれるのは、生きものが(人間とちがって)自然に生きているから、と言うこともできます。百姓が自然に没入し、我を忘れるひとときは、自然のままに生きているひとときではないか、とも言えるでしょう。
それにしてもこの「自然」という言葉は、いつも二つの意味を含んでいるものだと、感嘆します。「自然は自然だ」というのは英語では、Nature is natural.(自然は人間の手が加わっていない、神が創ったままの姿だ)ですが、日本語では「天地は自然に生きている、自然に動いている」というニュアンスになり、naturalの意味が深くなるのです。それは新しい言葉である自然(Nature)を天地の意味で使っているからです。
私が名詞の「自然」を翻訳語だと知ったのは30歳代で、柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波書店1982年)を読んだからです。その時の衝撃は一生忘れることはできませんし、私の考え方は大きく転換しました。柳父の指摘を私なりに言い換えるなら、日本伝来の自然はNatureの翻訳語とされることにより、Natureと同じように名詞的に使われるようになり、Natureの方も日本伝来の自然なという意味(天地に近い)を含むようになった、と。
 若い頃の私が衝撃を受けたのは、伝来の日本語にNatureを指す「自然」という言葉がなかったということでした。こんなに自然豊かな国なのに、なぜ?と疑問に感じたのでした。Natureは人間の外に対象化するものですが、天地は人間が内から自らも含んだものとして感じとるものだという理解は、私を自然(Nature)という概念を知らなかった先人の世界に目を開かせてくれました。
 しかしなぜ、Natureの翻訳語に、天地や万物や森羅万象や造化ではなく、自然が定着したのでしょうか。それまで、天地(山川草木)をおのずからなるもの(自然なもの)としていた前近代の日本人の感覚があったからだと思われます。 ( この項つづく)


第8回 日本人が「天地自然」に惹かれるワケ
                                                                 (2016年9月13日)

 これまでの農業論が避けて通ってきた大きなテーマがあります。「なぜ人間は(この場合は日本人とします)天地自然に惹かれるのか」という問いです。これに答えるのは簡単ではありませんが、農にとってはとても大切な問いなのですが、避けてきたのには理由があります。従来の農学では、手に負えないからです。
 私が飴棒(アメンボ)の動く波紋を眺めているとします。「あっ、宇根さんは自然に惹かれているな」とは誰も思いません。つまり一人一人の心情の問題だからです。私の言葉で言うなら「内からのまなざし」でしかとらえられない世界だからです。だからこそ、ほとんどの日本人にとって、自分の問題でもあります。
 農本主義の文献を探して読むようになって、一番驚いたのは、彼らはこのことを表現しようとしていたことです。

1、自然の有情への親近感
 
日本人が自然に惹かれる理由の表層は、まとめてみると、おおまかに二つの答え方があるような気がします。まずは対象としての自然の有情(生きもの)に惹かれるのです。赤とんぼ(精霊とんぼ)が夕空に群れ飛んでいます。夕日が羽に反射してきらきらと、光っては消えて散乱しています。うっとりと見とれます。この風景を眺めながら、次第にその中に吸い込まれていくような気になります。まるで自分も赤とんぼになって、夕空に漂っているような感じになる時があります。
 それは自然と人間を分けず、「自然(Nature)」という言葉を持たず、「天地」という言葉しか持たなかった時代の名残かもしれませんが、人間と生きもの(有情)の垣根が低く、生きもの同士だという感覚があるからでしょう。
英語のNatureのように、人間(自分)と対象をきっぱり分けて、対象である生きものを観察して、色がきれいだとか形が素敵だとかいうのとは違います。ただちに可愛い、きれい、すごい、ぞっとするというような感覚なのです。
 百姓の場合は、とくにいつも見慣れている生きものがほとんどなので、親近感がベースにあります。「今年も、また会えたね」というような感じがして、惹きつけられるのです。とくに風景はそうです。風景とは生きもので満たされていますが、一つ一つの生きものではなく、その全体に眼が惹きつけられる時に風景が出現するのです。とかく風景を画面として語るのが主流ですが、その背景には生きものの息吹があるからこそ、風景は人を惹きつけるのではないでしょうか。

 
私の在所の谷は片方の山肌は樫や椎などの照葉樹林に覆われていますが、五月になると色とりどりの新緑が吹き出てまるで花が咲いたようになります。私もどの色がどの木の新葉なのかよくわかりませんが、とにかく生気が溢れているこの風景が大好きです。こういう世界に見下ろされて私の村は存在しているのだと感じると、とても嬉しくなるのです。

2、自然との一体感
 
次に自然を対象化しないで、その中に入り込んで包まれてしまう境地がいいのです。自然と一体になる境地だと言い換えてもいいでしょう。ここでも西洋では「自然(Nature)」の原意が人間と人造物以外を指していたということとは異なる世界観になります。
 自然(Nature)の原意に忠実になるなら、「人間も自然の一員である」ことはありえません。ところが現代の日本では若い人も年寄りも、ほとんどの人が「人間も自然の一員である」と感じているのです。それは「自然(Nature)」を人間も含む天地の意味で使用しているからです。
しかし、よく考えてみると、人間が自然と一体化するというのは、不思議な現象です。私が自然と一体化している姿を、外部から眺めたらどうでしょうか。まさか、私の姿が消えてしまって、田んぼの稲に同化しているわけではないでしょう。しかし、一心不乱に田んぼで働いている姿は、まるで田んぼの一部のように見えているかもしれません。
 これを私という人間の内側から見るとどうなるでしょうか。百姓はしばしば仕事に没頭していると、時の経つのも忘れます。もちろん経済のことも、家族のことも、我すら忘れてしまいます。当然ながら、悩みも欲望もどこかに消え去っています。そして我に帰ると、もう日も傾いていて、回りを見渡すと天地自然に囲まれているのです。ああっ、そうか、天地自然に包まれ、天地自然と一体化していたのかと、やっと気づくありさまです。
 この境地はなかなかのもので、百姓仕事が楽しいという時の核に居座っているものです。ところが、何しろ忘我の境地なのですから、この状態を記述しようとすると、「仕事に没頭していて楽しかった」という以外に言いようがありません。外から見ても、内から見ても、なかなか核心はつかめません。
どうしたら、核心に迫ることができるのでしょうか。


3、前近代の百姓の天地観
 
そこで、「自然(Nature)」という言葉(概念)を知らなかった(必要としなかった)時代の日本人の天地観(自然観)はどういうものだったのか、たずねてみましょう。
 江戸時代の百姓・宮崎安貞は(私の在所の近くに住んでいました)『農業全書』(1697年刊)の冒頭で、次のように書いています。

 「それ農人耕作の事、その理(ことわ)り至りて深し。稲を生ずるものは天なり。これを養うものは地なり。人は中にゐて、天の気により、土地のよろしきに順ひ、時を以て耕作につとむ。もしその勤(つとめ)なくば、天地の生養(せいよう)も遂ぐべからず。」

 天地が生きものを育てるのであって、人間ではない。しかし百姓が天地に従って手入れしなければ、天地の力は現れない、という意味です。
人間が中心ではない、あくまでも天地が中心だと言っているのです。しかし安貞は百姓の「勤め」(仕事)も重視しています。しっかり手入れをするからこそ、天地のめぐみが受け取れるのだと強調しているのです。さすがに農書を書くだけの人間だと思われます。
ところが近代になると、こうした天地観は衰退していきます。近代化が進み、資本主義が発達し、農は産業化され「農業」に進歩して来たからです。ところがこのことに危機を募らせ、百姓の天地自然観の変質を痛烈に批判し始めた百姓の一派が大正時代から昭和の初期に現れます。いわゆる農本主義者です。その代表格の橘孝三郎(1893~1974年)の考え方を見てみましょう。

 「もちろん我々は稲や牛の生命力を我々の一切の技術的方法をあげても創造することもできなければ、大自然のこれらを生々育々せしめてゆく宇宙的作用を離れては策のほどこしようを知らない。我々はただ稲や牛の生命を見守って、自然の命ずるままに、その対象が促すところに従って、勤労の限りを尽くさなければならなかったのである。」(『農村学』昭和6年刊)

宮崎安定と何が違っているのでしょうか。まず「自然」という言葉を使用しています。日本語としての「自然(Nature)」は明治20年代後半から使われ始めましたが、橘は明治26年に生まれ、一高を中退したインテリでもあったので、当時はまだ百姓は使用しなかった「自然」を常用しています。次にそれよりも大切なことは、「我々は生命を技術では創造できない」というところです。この部分は現代でも通用します。現代の科学技術はクローンやiPS細胞に象徴されるように、生命を創造することに肉薄しています。
しかし、クローンにしてもiPS細胞にしても、もとの細胞は人間がつくったのではありません。生きものから生命を受け継いで生まれてきたのです。橘は工業が科学技術を発達させて、生産を飛躍的に向上させて来ることに対して、「農の原理は根本的に違う」ことを主張しなければならなくなった時代に生きていたのです。(現代は自体はさらに深刻さを増しています)
 しかし、安貞も孝三郎も「天地自然観」は驚くほどよく似ています。現代の百姓は平気で「稲をつくる。トマトをつくる。」と発言しますが、昭和30年代までは、「できる」「とれる」「なる」と言っていました。現在の百姓の自然観はいつのまにか大転換(変質)しているのです。
 それにもかかわらず現代人も自然に惹かれるのはなぜか、と問わなければならないでしょう。いや惹かれ方が薄っぺらくなっているのではないかと問わなければならないかもしれません。

(この項つづく)



第7回 農本主義と天地
     (2016年7月9日)


(1)「農本主義」とは何か
  ちくま新書『農本主義のすすめ』(10月10日刊行予定)を書きながら、私は農本主義ほど農の精神性に着目している思想はない、あらためて気づきました。とくに百姓に共感を呼ぶのは、(現代では必ずしもそうではないことは承知の上で言うのですが)「人間には食べものはつくれない」ということです。料理のことを言っているのではありません。

「われわれは稲や牛の生命を創造することはできない。われわれはただ稲や牛の生命を見守って、天地自然の命ずるままに、手入れの限りを尽くさなければならない。」(橘孝三郎『農村学』)

「農作物は天のめぐみをうけて育つのである。つまり農作物ができるのは「天」と「地」の御力である。人間はただお手伝いをしているだけのことである。ゆえに出来た収穫物の大部分は天地に御礼を申さねばならない。」(松田喜一『農魂と農法・農魂の巻』)

農本主義者に共通するのは、天地自然への限りない敬愛と帰依でした。ところが、この連載の第2回で、「神の死が近づいている」という不遜な文章を書いたように、昭和初期の農本主義者橘孝三郎や戦後期の農本主義者松田喜一が生きていれば、腰を抜かすような事態が昭和四十年代に起きたのです。それまでは、百姓の多くが農作物を「つくった」とは言わず、「できた」「とれた」「なった」と表現したのが、「つくった」「つくる」と変化したのです。
 「できる・とれる・なる」は、人間が主体ではなく、あくまでも天地自然のめぐみを人間は受け取るという受け身の感覚です。一方の「つくる」は、人間が主体で、自然を加工して目的とするものを生産するという近代的(科学的)な発想です。つまり昭和四十年代にこうした転換が、百姓も意識しないうちに徐々に進行したということです。
 しかし、なぜ人間主体の「つくる」では、いけないのでしょうか。


(2)百姓は人間中心主義になれない。
 自由を全面的に肯定するリバタリアン(完全自由主義者)は「努力する人が報われる社会」をいい社会だとしていますが、そのためには能力のある人が勝ち、能力のない人が貧しくなるのはやむを得ないと主張しています。人間の欲望を全面肯定するこうした考え方と農本主義は対極にあります。百姓は天地自然からのめぐみで生きている以上、人間中心にはなれないのです。あくまでも天地が中心なのです。金儲けが下手でも、社会の流れに乗れない人も、それなりに生きていくことができる社会(共同体)であるほうがいいでしょう。
 いくら優れた技術を行使して、収量が倍増したとしても、その倍増した分のたぶん90%は天地自然の力であることを忘れてはいけないのです。「しかしこの技術があったからこそ、天地自然の力を引き出して、収量が倍増したのだ。」と言い張りたいなら、その技術がほんとうに天地自然に負担をかけていないかどうかを検証してから発言してほしいし、できるならことなら天地自然の力に対価を支払ってからにしてほしいものです。
 農本主義者なら「田畑の作物は生きもので、人間にはつくれない」ことは自明のことだと考えています。それを「つくる」といった途端に、人間中心主義に陥って、傲慢になるのはなぜでしょうか。天地の力が無償だということを忘れてしまうからです。
 これを証明してくれるいい事例があります。農業体験で盛んに行われている田植えはほとんどが前近代的な「手植え」です。(わが家の田んぼも手植えです)百姓仕事は全くの初体験の子どもたちが植えた苗であっても、最初は列が曲がっていても、後にはわからなくなって、ちゃんと育ちます。これは子どもたち(人間)の力ではなく、天地の力で育つからです。子どもたちも天地有情の共同体の一員になってしまうからだとも言えるでしょう。それは天地有情の共同体の一員だから、天地自然の力をもらえるのです。


(3)欲望がわきあがって来ない世界
 「人間の欲望はきりがない」というのは、資本主義が開拓した人間の見方でしょう。需要(消費・欲望)に限界がないから、供給(生産)は限りなく拡大して、社会の富は増えて、進歩していくんだ、と言われても同意できません。なぜなら、欲望の無闇な増大はいいことだとは思えないからです。欲望が大きくなれば、悩みも大きくなるというのは、誰でも気づいていることです。
 それは天地有情の共同体の影響ではないでしょうか。天地は人間の欲望に応えることはありません。夏は暑く、冬は寒いものです。しかし、夏の日陰の涼しい風は体の中まで吹きこみますし、冬の日だまりは心を温めてくれます。種浸け花が咲けば、種籾は水に浸けてくれと声を出し、彼岸花の葉が出てくれば、もう夏の草は伸びてきません。天地の移ろいに合わせ、天地の再来を待ち、天地の猛威には静まるのを待つことは、決して人間の敗北ではなく、天地に抱かれることをよしとする百姓の感性です。
農本主義者の生き方が禁欲的に(ストイックに)見えるのは、天地有情の共同体に対する感謝を優先させるからです。そうしなければ、人間は天地のめぐみを豊かに受けとる知恵を失うことがわかっていたからです。天地に要求を突きつけるなら、天罰を覚悟しなければならなくなります。
 田んぼに囲まれた田舎の旅館では、蛙の声がやかましいという客がいるそうです。私の家に泊まりに来た友人で、周囲の蜜柑畑の蜜柑の花の香りがきつくて眠れない人もいました。天地のめぐみに違和感を抱くようになっていくのは悲しいことです。蛙の声や蜜柑の花の香りを楽しみとするのは欲望の充足でしょうか。欲望とは別のものが満たされるのではないでしょうか。それは「自然な」状態にあることでしょう。こうした世界では、欲望が湧かないのです。それは禁欲状態とは別物なのです


(4)ストイックに生きる安心
 質素に生きる方が、安心(あんじん)を得られます。(ここで言う「安心」とは心に悩みがない状態を言います。)贅沢をすると、不安になるのはどうしてでしょうか。「それはあなたが贅沢に慣れていないからだ」と言われますが、それだけではないと思います。仏教は悩み(煩悩)を脱却する知恵と方法を教えてくれています。現実世界へのとらわれ(執着)やこだわり(執念)を捨てよう、欲望こそが悩み・煩悩の原因だと教えてくれます。ところが近代という世界は、何事につけ人間中心の見方を推奨し、よい欲望なら実現することを目指します。その最たるものが科学技術の発達です。自分の力では叶わなかったことを実現できるようになりました。よい欲望は全面的に肯定されるようになったのです。それが「人間性の開花」とまで言われてきました。残念ながらこのことに対して、仏教は本格的に反対して来ませんでした。
 しかし、こうした欲望の全開・解放は、欲望を鎮めるものを見失わせます。便利に、豊かに、楽になったからと言って、幸せとは言えないことは誰でも感じていることです。失ったものが見えるときに、私たちは不安になります。いや言い方が逆転しています。安心の世界を失ったからこそ、私たちの悩みは深くなったのです。
 それでは「安心の世界」とは何でしょうか。変化しないことです。百年一日の如くくり返すものこそ、過去から未来へと流れているもので、私たちを安心の世界に包み込んでくれます。その安心世界こそが、欲望を鎮めてくれるもので、近代的な価値観に対抗するものです。その代表が天地有情の共同体でした。
 農とは天地の浮かぶ大きな舟ですが、この舟に乗っているという自覚こそが、安心の拠り所なのです。天地有情の共同体の本体は、言わば天地中心主義で、人間中心主義から生まれた欲望を手なずけ、鎮めてくれるものです。
したがって農本主義者が大切にするのは、天地自然に没頭することなのです。その時には、忘我の境地になり、欲望は消え去ります。「でも我に帰ったときには、元の木阿弥ではないか」と言われるかもしれません。それでもいいのです。そういうひとときを大切にして生きていけばいいのです。




第6回 内からのまなざし          
(2016年3月26日)

1、ふたたび「不殺生戒」

 
第4回で「不殺生戒とは」を語りました。その後で、読んだ『人と動物の日本史4信仰の中の動物たち』(吉川弘文堂2009年)の中の「不殺生の教えと現代の環境問題」(岡田真美子執筆)では、私の推論が間違っていなかったことが分かりましたので、要約しておきます。
 「不殺生」の言語はサンスクリット語で、単に殺さないということだけでなく、「傷つけない」ということを意味しているそうです。古代インドの文献では、「不殺生」とは、「必要もないのに、みだりに他を傷つけないこと」という意味で使われていました。
 初期の仏教では、人肉や象、馬、蛇、犬などの一般に食べることを禁止されていたもの以外の、牛肉や豚肉、鳥肉、羊肉は、托鉢でいただいて食べていました。
 ところが4世紀から5世紀にかけて成立した大乗経典で、肉食は全面的に禁止されたのだそうです。(「涅槃経」)
 ここで著者の岡田は面白いことを指摘しています。この「禁肉食」の実行しやすくするために、植物の「非情化」が行われた、というのです。動物とちがって、植物には意識がない、したがって食しても無慈悲にはならない、という論理が大乗仏教に登場したのだそうです。
 パーリ語の初期仏経経典では、明瞭に草木を生きもの(有情)としています。続いて現れた部派仏教でも、植物は一つの感覚器官を持つ生きもの(「一根」の衆生)とされていて、当然みだりに傷つけないという不殺生戒は植物にも及んでいたのです。
 ところが日本に伝わった仏教(大乗仏教)は、植物は有情ではない、という立場の仏教だったのです。もともとの日本人は、草木も生きもの(有情)だと感じてきたのですから、戸惑うはずです。そこで、もう一度インドの伝統に戻したわけでもないでしょうが、日本では草木を有情(生きもの)に戻した「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想が生まれたと思われます。
 したがって、第3回の記述を補足するなら、当時の日本人は「動物は有情だから殺してはいけない。植物は非情だから殺していい」という仏教の教えに、違和感を感じたものの、次第に「禁肉食」を場合によっては受け入れました。やがて植物に対しても、「みだりに傷つけない」という本来の「不殺生戒」を適用した日本的な教義に変えたのです。
 いずれにしても植物の「生」だけでなく、「死」というものを、はじめて意識するようになったのではないでしょうか。
 さて岡田はこのあと「供養」に話をすすめ、「供養とは他のいのちを奪わなければ生きていけない生存の悲しみ、こころの痛みと折り合いをつけ、不殺生の誓いを新たにする儀礼であって、仏教以前から行われていた」としています。しかし岡田がその延長に位置づけている科学者の「実験動物の供養」は、似て非なるものではないか、と私は疑問に思います。科学のためにいのちを奪われていく動物への哀悼は、供養によって「不殺生戒」につながっているでしょうか。「やむなく動物のいのちを奪った」のではなく、科学の成果を得るためのデータを得るために、つまりは人間のために積極的に正当化されてしまっているからです。
 農薬会社や農薬販売業者、農薬散布を指導する専門家が行う「虫供養」に、未だに私はなじめません。まして口蹄疫や鳥インフルエンザで「殺処分」になった牛や鶏の「供養」には、殺さないでいい道もあったのに、と感じるのです。
 そもそも現代の日本社会において、人間中心主義を告発するような「供養」が成り立つのでしょうか。むしろ「死」に直に向き合い、しっかり受けとめる機会として「供養」があるのではなく、単なる免罪符として行われている場合が多いのではないでしょうか。


2、草木も話す

 
さて第3回では、草木を生きものとしてみていた古代の日本人の感性を「古事記」から引用しましたが、「日本書紀」にも面白い文章がありました。
 巻第二「神代下」では、天照大神の孫のニニギノ尊が、高天原から葦原中国(地上)に降りて行って治めようとすると、そこでは「また、草木みな、よくもの言うことあり」の国だったとあります。現代語訳は「また、草や木もみな精霊を持ち、物を言って無気味な様子であった」(小学館・日本古典文学全集)となっています。
 草木と会話できるのが、古代の私たちの先祖の感覚だったことを再確認して、本題に入ります。


3、内からのまなざし

 
この連載の第3回の最後で、『「なぜ百姓は、百姓仕事の精神性(世界観・生命観・天地自然観など)を表現しないのか」と問われるなら、表現しようとすること自体がその世界の外にでてしまい、天地に没入する境地を破壊するからだ、というしかありません。表現してでも近代化や資本主義から守らなければならないのに、この矛盾(アポリア)を現代の農業思想は超えることができないでいます。私の方法はただ一つです。内からのまなざしと外からのまなざしとを、自在に切り替えて、往復してみるのです。』と述べました。
 今回は、このことを詳しく説明します。外からのまなざしである科学的な見方では、とうていとらえることも、表現することもできない農の精神性が見えやすくなるからです。肝心なことは、「往復する」ということです。


(1) 外からのまなざしの典型

 
いつものたとえ話を今回も持ち出しましょう。池の中に鮒が住んでいます。鮒は池の中の隅々まで見て感じていますが、池の形や池のそばまで開発の波が及んでいることはわかりません。ところがあるとき釣り針にかかった鮒は、生まれて初めて池の外に出ました。そして池の形が、六角形をしていることや、すぐ横に高速道路の造成が始まっていることを知るのです。
 池の中の鮒は、池の中に住んでいる限り、自分が池に中に住んでいるという感覚すらありません。池の中の世界から外に出ることがないからです。つまり「池」という概念(言葉)を持っていないのです。この池を「自然(Nature)」になぞらえれば、かつての日本人が自分も含む「天地」という言葉は持っていたのに、人間以外を指す「自然(Nature)」という言葉を持っていなかったことがわかるでしょう。「自然(Nature)」は明治期にできたNatureの翻訳語ですから、輸入されたようなものです。「自然(Nature)」とは、自然(池)を外から見たときにしか理解できないのです。つまり池の外に出ないと見えないのです。
 外からのまなざしでしか見えないものの典型がこの「自然」なのです。しかし私たち日本人の多くが現在でも「人間も自然の一員だ」という感覚を持っています。Natureの語義に忠実に従えば、Natureとは神と人間と人造物以外を指すのですから、誤用もいいところです。しかし、だれもそれをとがめ立てはしません。なぜなら、この「自然」は人間も含む「天地」の意味で使われているからです。「人間も自然の一員だ」というのは、内からのまなざしの感覚です。このように私たちは、池の内と外を無意識に行き来しているのです。自然の外と内を行き来しているのです。しかし、それを自覚することはありません。
 このことを「自覚」し、「意識」してみると、なかなか自然に没入することができなくなります。田んぼの上を赤とんぼが飛んでいるとしましょう。池(自然)の中の人間には、「ああっ、今年もまた赤とんぼが飛んでいるな。ああーあの羽のきらめきがいいな」と感じますが、池(自然)の外に出ると、「そろそろ羽化の時期になったな、今年は多いところを見ると、東南アジアからの飛来が多かったとみえる」というように、客観的な雰囲気になっていきます。「あっ、それは外からのまなざしですね」などと言って、この両者を私たちは区別することはありません。
 科学的に観察することを外からのまなざしだとすると、「自然概念を持たなかった江戸期の日本人だって、しっかり対象を見ていたはずだ」と反論したくなるかもしれません。そういう反論をする人は、すでに外からのまなざしを持ったことのある「自然」概念を知っている人である証拠です。江戸期までの見方は、精緻な観察であっても、あくまでも外からと内からとのまなざしを区別しない見方なのです。現代人のように内からのまなざしを切り捨てて科学的に見るようなまなざしとは異なり、かならず内からのまなざしでもある情愛が付随していると言ってもいいでしょう。
 自らも天地の一員だという感覚で眺めるからこそ、第1回で紹介したように、二宮尊徳は天地の様子に、釈迦の教えである「経」を読み取ることができたのです。私たち現代の日本人は、外からのまなざしを身につけているので、天地から「経」を聞くことはできなくなっています。しかし、仏教の
修行者のように、無我の境地になれば、それが天地から聞こえてくるかもしれません。

(2) 仕事を外からと内からとで見比べる

 
そこで百姓仕事をまず外から見てみましょう。次に同じ仕事を内から見てみましょう。私が草刈りをしていました。それをしばらく眺めていたある学者がこう言いました。「百姓仕事は単純作業の連続ですね」と。たしかにそう見えないこともないでしょう。こういう見方が、第三者(農業の専門家の)見方の特徴です。
 一方、草刈りをしている私は、と言えば、「ほう、まだあざみが咲いているのか。もう嫁菜が咲き始めたな」などと、草たちと言葉を交わしながら刈っていたのです。これが内からのまなざしの典型です。外からは私と草とのやりとりはわかるはずがありません。
 前者は「労働時間」や「生産コスト」などという概念を発達させていき、優劣の判断まで行うようになります。農学の対象として表現されます。現在では圧倒的にこういうまなざしの方が優勢です。一方の内かららのまなざしは、ほとんど表現されることはありません。もちろん学の対象となることもなく、表現を競い合ったりすることも有りません。滅びていく世界かもしれません。
 どちらのまなざしも大切でしょう。しかし、私は、内からのまなざしの方が大切だと言わないといけない時代になったと思っているのです。
 第5回で取りあげた、畦草刈りの時に蛙が跳びはねるので躊躇する五分間をもう一度思い出してください。外からのまなざしでは、斬り殺しても翌年の蛙の密度には影響がないので、躊躇する時間は無駄な時間だという結論になりました。しかし内からのまなざしでは、躊躇するから蛙へのまなざしや情愛や天地有情の世界感覚が守られるのだ、と主張しました。外からだけのまなざしでは自然環境は守れないという理由は、蛙への内からのまなざしが滅ぶから、自然環境へのまなざしも衰えていくからです。
 蛙の密度(外からのまなざし)が大切なのではありません。蛙への内からのまなざしが重要なのです。言葉を換えると、自然が大切なのではなく、自然へのまなざしが大切なのです。しかも内からのまなざしが、ということになります。
このことは百姓仕事のすべてに当てはめることができます。同じ面積を、同じ時間で耕すなら同じ仕事だと、外からの見方では言い切ります。現代の農政や農学の見方はほとんどこれ一辺倒です。しかし、楽しく耕しているのと、悩み事が気にかかっているのでは、仕事の中身は異なります。耕しながら目に映る風景によっても、生きものに気づくかどうかによっても、仕事の充実はことなります。でも、そんなことは農政や農学の対象ではなく、個人的な思いの世界だ、と言うのです。そのとおりだと私も思います。
 しかし、農政や農学が捨て去り、見向きもしないこうした世界は無意味で、無価値なものでしょうか。そうではないでしょう。こうした精神性にこそ、百姓の人生の大半は根ざしているのです。それになぜ注目し、表現しなければならないか、ということが重要な問題です。
 (1)それが瀕死の状態だからです。
 (2)にもかかわらず、それを救い出す手立てを講じようとする人間が少ないからです。
 (3)それを守ろうとする、国家や学が不在だからです。
 (4)それを価値づける新しい価値観や、新しい学の方法を生みだしたいからです。
 (5)それは、決して農だけの世界ではなく、天地とつながるすべての世界についても同様です。
 私が「内からのまなざしと「外からのまなざし」を往復するというのは、じつは「新しい学」の提案なのです。このことは、また近いうちに「野の学問」として語ることにします



第5回 百姓仕事の精神性       
(2016年2月16日)

 
この連載を生きもの「生死」から始めたのは、農において、生きものの生死の語りが冷たくなった(冷静に人ごとみたいに語っている)だけでなく、そもそも語られなくなっていると感じていたからです。こうなった原因はいくつも考えられますが、最大のものは「科学」には、生死やいのちを語る言葉が貧困だからです。その証拠に、科学に裏打ちされている農業技術は、生きものの生死をほとんど語りません。
 これから農の精神性の、もうひとつの核心に迫ってみましょう。

1、技術と仕事の違い

 「百姓仕事にあって、農業技術にないものは何か」あるいは「農業技術にあって、百姓仕事にないものは何か」という問いは、とても重要です。農業技術を研究し、普及し、指導してきた「専門家」(百姓以外の農業関係者を指す)は、こういう問いかけを自らに課すことがほとんどありませんでした。なぜなら、農業技術は百姓仕事の発展したもの、あるいは百姓仕事から抽出して技術化したもの、という考えが常識になっているからです。
 たとえば、手で植えていた「手植え」という百姓仕事は、田植機による「機械移植」に進歩した、と言われれば、納得してしまう人が多いでしょう。しかし田植機による移植技術は、手植えという百姓仕事を参考にはしていますが、まったく別物かもしれないのです。そこで「手植えにあって、機械移植にないもの」という問いを立ててみましょう。答えは無数にあがってきますがが、代表例を示すことにします。

 ①田植え歌を歌い、また聞きながら早乙女が中心になって植える習慣。(早乙女、早苗、皐月、さなぶり、五月雨、桜の「サ」は稲の神だという説に、私は賛成なのですが、このことは後日取りあげることにします)
 ②自分の足で田の土の感触や深さを感じながら、あるいは自分の手で苗の育ちを感じながら、体全体で風や水や日差しを感じながら植える体感性。
 ③すでにどこからか飛んできて泳ぎ回っている蛙や源五郎や飴棒、産卵中の精霊とんぼ(赤とんぼ)や、水面すれすれに飛ぶ燕に目をとめる余裕。
 ④腰を伸してみると、田んぼの水鏡に移っている村の風景に囲まれ、その中で働いている自分が、天地と一体になっているような感じ。
 ⑤余った苗がかわいそうという気持。

 そこで逆の質問「田植機での移植技術にあって、手植えにないもの」にも答えておきましょう。

 ①いかに効率よく植えるかという意識。
 ②運転技術、機械の整備技術。
 ③事故をおこさないような注意。
 ⑤あまった苗がもったいないというコスト意識。
 ④稲は「できる」のではなく百姓が「つくる」という意識の誕生。
どうでしょうか。両者のどこに違いがあるかがはっきりしたのではないでしょうか。

2、仕事の精神性

田んぼの「生きもの調査」をやると、ほとんどの百姓が「まだこんなに生きものがいたのか」と驚きます。百姓仕事が農業技術から侵食されていくにつれて、失われていった生きものへのまなざしが、生きもの調査という新しい百姓仕事によって復活してくるからです。生きもの調査をした後「太鼓打ちを30年ぶりに見た」と発言した百姓がいました。彼は私と同年代の百姓でしたから、最後に太鼓打ちを見たのは30歳前後だったということを、覚えてはいたのです。
 30年前は生きものへのまなざしが百姓仕事には残っており、その後の農業技術からは失われていた、と考えることもできます。彼は先の発言の後「オレは30年間何を見てきたのだろうか」と真顔で私に言いました。
 これを単に時代の変化だと片付けてきたのが「農業界」でした。私は百姓の精神がどのように、何によって、どこから変化したかに着目しますので、これは仕事から技術への変化がもたらした影響だと気づきました。しかも、この変化は生きものへのまなざしだけにとどまらないのです。 近代化によって失われていくものへの愛惜が、近代化技術を推進する「専門家」に希薄なのはどうしてでしょうか。好意的に解釈するなら、上部技術の土台には、仕事(土台技術)の世界が失われずに保存されているという思い込み(※1)があるからでしょう。こういう意識が「専門家」にあるうちは、まだいいのです。対策も立てられます。ところが、技術は「進歩・発展」をもたらすためにあるという信念では、そういう世界に目を向ける気持ちすらなくなります。
 この農業技術の最大の欠陥を乗り越える道すじを考えるにあたって、まず、近代的な農業技術はそのほとんどが「上部技術」であると位置づけます。一応科学的に証明できるもので、ほぼマニュアル化できるものです。専門家が研究し普及・指導できる技術です。そこには百姓の経験や情愛などは必要がありません。誰でもが行使できる技術です。
 それは、その上部技術の土台に、百姓の経験や情愛を含んだ百姓仕事があって、この百姓仕事がそれを支えていると見ることもできます。そう見ないと田畑の条件が異なるのに、画一的な上部技術が普及していく理由がわからなくなります。百姓仕事の中の上部技術を支えているマニュアル化できない百姓の対応を意識したときに、それを「土台技術」として表現することができるようになるのです。(『田んぼの忘れもの』1993年)
 さて今日の「土台技術」論の深まりを紹介しましょう。
 8月になって肩掛けの刈払機で田んぼの畦草刈りをしていると、沼蛙がよく跳びはねるようになります。私はそのたびに躊躇して、一瞬草刈りの進行を止めます。この躊躇する時間が半日で5分になったとしましょう。この5分間は無駄な時間だろうか、と考えてみてください。
 そもそも、この「躊躇する5分間」は、農業技術に含まれていません。なぜなら、農業技術は目的としていないものは生産しないことになっていますから、目的外の事象・世界は、阻害要因か、もしくは意識の外に放逐されています。ところが「刈払機による畦草刈り」という農業技術を採用している百姓には、「蛙を切るまいとして躊躇する気持ち」は残っていて、農業技術の行使を「妨害」しているのです。それは「妨害」しているのではなく、別の「蛙を育てる土台技術」を採用しているととらえることも可能です。
 しかしそれは、「土台技術」ではなく、上部技術が代替できなかったものが、「百姓仕事」の中に残されていると考えることもできます。どちらを取るべきでしょうか。
 そこで、躊躇する行為(仕事あるいは土台技術)の本体は何だろうか、と考えましょう。答えは簡単に見つかります。躊躇しなくなったら、百姓の中の何が失われるか、を考えればいいのです。
 ①蛙へのまなざし。これが一番大きいでしょう。躊躇するということは、百姓は蛙を見ているからです。
 ②蛙への情愛。見ているだけではありません。蛙を殺したくないという感覚が生じるということは、自分だけの力ではありません。家族や村人たちの情愛が歴史的に引き継がれてきているからでしょう。生きものを相手としてきた農の伝統を、体現しているのです。
 ③もともと百姓仕事を効率でとらえないという感覚。これもとても大切です。農業技術が成立する過程で失われた世界とでも言えるでしょう。(ちなみに労働生産性を無視する農業技術は1970年代までは、農業界の主流だったことを思い起こしたいものです。その典型は米の「多収核技術」でした。百姓はあらん限りの労力と工夫と情熱をつぎ込んだのです。)
さて20数年ぶりに、「土台技術」論を展開するにあたって、百姓仕事の中の「精神世界」を失われないようにする技術として「土台技術」に着目することにします。
 たしかに刈払機による蛙の殺傷は、せいぜい3~5匹/10aで、蛙の密度が1000匹/10aを越えるわが家の田んぼでは、生態学的に検討しても、翌年の密度に影響があるとは思えません。農業技術(上部技術)の推進者はそう判定するかもしれませんが、蛙の死を無視できない心情にこそ、百姓仕事の「精神性」(精神世界)があるのです。農学(上部技術論)はこれを扱う方法論を持っていないから、とりあげなかっただけの話なのです。
 こうした精神性に根ざしたまなざしがなければ、果たして「生物多様性」や「環境保全型農業」、「多面的機能の発揮」や「自然環境の保護」などは、農業技術の中に位置づけることができるのでしょうか。無理でしょう。
 こうして、私は畦の草刈りを「技術化」されたものとして語っています。たしかに刈払機は農機具として傑作の一つだと思います。この機械の労働生産性に及ぼす効果は絶大です。畦に除草剤を散布する技術が近年になるまで普及しなかったのは、この草刈り機による草刈り技術が、それまでの鎌による草刈り仕事にうまく置き換わっていたからです。この技術は手刈り技術を否定することがなかったと言ってもいいでしょう。(その点で、除草剤による畦の除草技術は、それまでの仕事の一切を否定しているので、なかなか普及しませんでした。ちなみに田んぼの中の除草剤も当初はなかなか普及しなかったことは留意しておいていいでしょう。)
 果たして稲作技術の中に、畦草刈り技術は含まれているでしょうか。もし含まれているなら、「いつ頃、何回、刈った方がいい」というマニュアルが作成されているはずですが、それはありません。ということは、畦草刈りという技術は百姓仕事の段階にとどまり、つまり「土台技術」の段階から「上部技術」になっていないということになります。
 しかし武谷三男の有名な技術の定義である「技術とは科学的な法則性の意識的適応」を当てはめると、草刈り技術もこの中に収まりそうな気がします。ただその「意識的な適応」は、「草を刈る」というところにだけ適応されていて、蛙の生死や、草の生死、畦の景観などには適応されていません。つまりここが技術と仕事の違いなのです。あるいは、農業には武谷理論は適応できないという証拠になるかもしれません。そこで、武谷理論に欠けている世界を補う理論として「土台技術」が提案されました。繰り返しになりますが、上部技術に足りない土台技術を足してこそ、百姓仕事を技術論で扱えるようになるのです。
 だからこそ、上部技術だけを暴走させるのではなく、その土台に土台技術を接合することによって、農業技術が農業生産を狭い世界に押し込めてしまわないようにするのです。生きものの生死へのまなざしは仕事の中だけで伝承するのではなく、「土台技術」として伝承・表現する道が見えてくるのです。
 生き物調査はそういう「土台技術」の形成の方法としてとても有効です。しかしそれは、上部技術に接合されなければ、単なる試みに終わるかもしれません。そこで、その接合の場面をみていきましょう。


3、生きものの生死

田んぼの「水管理」という技術があります。抑草のための深水、あるいは間断潅水、中干し、落水などはその極端な技術化でしょうが、技術化されていない百姓仕事としては、「田まわり」があります。本来は水だけではないのですが、「水管理」という技術は、湛水状況を見て回る仕事(田まわり)が土台にあるものなのです。
 前回もとりあげたように、うっかり水が干上がっていて、おびただしいお玉杓子が白い腹を見せて死んでいるとしましょう。しかし上部技術では、これを水管理の失敗と位置づけることはありません。先ほどの畦草刈りと同じように、生きものの生死への関心は、ここでも見事に排除されています。近年では水田からの温暖化効果ガスであるメタンの発生を抑制する水管理が研究開発され、「早めの中干し」や「早期間断潅水」が推奨されているところもありますが、こうした技術を採用することは、水生昆虫や両生類の幼虫(幼生)を殺しますが、まったく眼中にないようです。
 なぜ農業技術は形成過程で、生きものへのまなざしを「土台技術」として形成しなかったのでしょうか。前述したように、生きものへのまなざしや生きものの生死に対する精神性は、百姓仕事の中には含まれていることは当然なので(百姓は誰でも保持しているものだから)、技術化しようとはしなかった、というのが本当のところでしょう。(※1参照)しかし、それは生きものが豊かだった時代のことであり、百姓の精神世界が豊かに保持されていた時代の判断だったのです。現代では、生きものへのまなざしを「土台技術」として形成せざるをえない時代になってきているのに、そうした感覚がそもそも「上部技術」では育たない構造になっているのです。
 そこで「技術は目的とするものを生産する」という原則に照らして、つまり技術形成の過程で、生きものを育てることを意識的に「目的」として導入すればよいことになります。そのために私たちは「生きもの指標」を提案してきたのです。(農と自然の研究所の実績参照のこと)農水省も私たちとは別に「生物指標」を発表しています。ところがそれは簡単ではありません。それを「土台技術」にする研究が停滞しています。その原因は何なのでしょうか。
そうした土台技術を形成して上部技術に接合すると、従来の「生産性」の概念が通用しなくなるからだと思われます。そこで新しい「生産性」の定義を構築しなければならなくなります。同時にその新しい「生産性」を評価し、国民と国土の広げていく政策、例えば環境支払いのような政策が必要になってきます。こういう面で、日本国と自治体の農業政策は、おおいに遅れていると言わざるをえません。こうした怠慢が環境を守る「土台技術」の形成を遅らせ、「専門家」の役割を広げることを妨げています。
 またこうした「土台技術」の形成は、農業試験場だけで行うことは不可能です。百姓や百姓に寄り添う「専門家」の役割が、試験研究においても再検討されなければならないのです。

4、生きものの死に対するまなざしの変化

前回、百姓仕事ほど生きものを殺している仕事はない、と述べました。しかし、農業技術には生きものを殺しているという感覚はほとんどありません。農薬散布であっても、虫を殺しているというよりも、虫を駆除し、防除しているという感覚であって、殺していると感覚とずれています。
 生きもの死に対するまなざしの変化は、先に述べた畦草刈りの時の蛙を切るまいとして躊躇する場面に現れています。これは刈払機だからこそ生まれる感覚でしょう。近代技術は百姓に「殺している」という認識を持たざるをえないようにしたのですが、これに感応したのは、百姓仕事にそなわっている情愛の部分です。百姓はそれまで生きものの死には敏感だったのだが、殺しているという認識はなかったのですが、農業技術に登場によって、そういう意識を持たざるをえなくなったのです。それなのに、当の農業技術の方は、そういう事態に百姓を追い込んでいることに無自覚なのです。
 これは百姓にとって「天地自然観」の大きな転換だったことを見逃してはなりません。ただ、「百姓仕事は生きものを殺す仕事だ」という感じ方・考え方は、近代化技術から倦まれたのではなく、昔からあったのではないか、という意見もありますが、根本的にちがいます。
 たとえば、前回話した「うっかり水を切らして、お玉杓子を殺してしまう」ことは、昔からあったことでしょう。当時の百姓も現代の百姓も「悪かったな」と後悔しますが、お玉杓子を殺したことを悩み続けることはないようです。それも天地自然の自然ななりゆきで「あたりまえ」だと思い、「仕方がない」と感じているからです。幸いなことに、百姓仕事によって絶滅していく生きものはいないように思えます。(近代化技術はちがいます。)
 前回の繰り返しになりますが、毎年生きものはそこにあたりまえに出現してくれます。これは天地が百姓に生きものを「殺している」と思わないでいいようにしてくれていると言うしかありません。したがって、生きものが「あたりまえ」にいることが、殺生を「仕方がない」と容認し、ことさらに自覚しない原因なのかもしれないのです。ここに生きものを保全する土台技術が必要である最大の理由があると私は思います。






第4回 不殺生戒とは
                         (2106年2月1日)

現代は「命・生命」が過剰に重要視されていて、異常な感じがします。こう言うと、「誰だって、命が一番大切でしょう」と反論されます。「それは人間の命のことですね」と念を押すと、「当然でしょう」と答えが返ってきます。
 口蹄疫で28万頭の牛や豚が「殺処分」になり、鳥インフルエンザで2000万羽の鶏がこれも「殺処分」になりましたが、これらの命は対象に入っていないのです。すべては「人間のため」に(ナショナリズムのため、というのも忘れずに付言しておきます)生と命を奪われたのです。 しかし、まだ動物なら感じやすいので、語りやすいのですが、植物になると、そうはいきません。
 今回は、人間や動物よりも、生と命の根源に近づくために、草の生と死を見つめます。


(1)草を「殺す」という発想
数年前にうっかり田んぼの水を切らしてしまいました。掛け流しにして出かけたのですが、上流から流れてきたビニール袋が水口をふさいで、田んぼに水がかからなくなっていたのです。一枚(四畝)だけが干上がり、おびただしいお玉杓子の死骸が横たわっていました。(ここであえて外からのまなざしを挿入するなら、お玉杓子だけでも4アールで約8万匹の殺生でした)
 これは天災(自然現象)ではなく、私が家を空けたせいですから、さすがに自責の念にかられました。ほんとうにすまなかった、と詫びましたし悔やみました。いやこれが天災によるものだとしても、百姓は可愛そうだと思うのです。いつもそばにいる生きものの死に鈍感でいられるはずはありません。
 したがって「無駄な殺生はするな」という教えは、動物に関しては、仏教徒でなくても、百姓なら腑に落ちるものです。
しかし、草の場合はそうではありません。草とりをしていても、草を殺しているという感覚はありません。日本の百姓が草を殺すという視点を持つようになったのは、仏教の「不殺生戒」の影響ではないでしょうか。
 「不殺生戒」とは生きものを殺してはいけないという仏教の戒律です。戒律は出家した僧の集団であるサンガの規則として、釈迦が定めたものです。その戒律の中でも第一のものが「不殺生戒」なのです。
 人間を殺していけないという倫理は、「自分が殺されたくないのだから、他人も殺すな」と言われれば納得できます。しかし、この倫理は自殺しようとする人には当てはまりません。「自分を殺そうとする人は、他人も殺してもいい」となるからです。そこで、さすがに釈迦は自殺も戒めています。
 たぶんこの戒律は、人間同士の殺生をとがめるのは、仏教以前からあった共同体を維持していくための掟だったのでしょう。仏教はそれにあらためて、別の根拠を与えたのかもしれません。それは仏教が「苦」を乗り越える教えだったからでしょう。「殺す」と言うことは、生への執着、煩悩の最たるものですから。
 そこで、問題にせねばならないのは、もともとの仏教の「不殺生戒」に、人間ではない草や虫などの生きものまで、殺してはいけない、という内容が含まれていたかということです。学者の研究書をいろいろと読んでみると、古代インドでは草木に命を認め、その殺生を罪としていたようです。ところが、初期仏教では草木は(「有情」ではない)「非情」とされ、慈悲の対象にならなかったそうです。ここがインドの他の宗教とは違う仏教の特徴だという説が有力です。もっとも釈迦は草木にも命があると見ていてむやみな殺生を戒めているので、そこは曖昧な部分があり、きっぱりと決めつけることはできないようです。
この点で、ジャイナ教は徹底しています。生きものは「六生類」つまり、地・水・火・風・草木穀類・動物を指し、すべて命があるので殺してはいけないと教えています。「地」については、地面を掘ったり耕したりすることも禁じられているので、百姓がジャイナ教徒になるのは難しいのだそうです。だからでしょう、ジャイナ教徒は金融業の人が多いと言います。
 ところがやがて、仏教は徐々に草木も「有情」に含めるようになっていきます。とくに日本では、平安時代になると、「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想が生まれ、草木などの「非情」にも仏性があり、成仏できることになります。
これは、それまでの日本人の草木にも霊性があるという感覚が土台になっていたのではないでしょうか。ここはなかなかうまく表現できないところですが、草とりをしても草を「殺している」という感性はなくても、草に生は感じ、草に「たましい(霊性)」は感じていたのです。
 その代表例が古事記の冒頭にでてきます。
 「国わかく浮けるあぶらの如くして、クラゲナスタダヨヘル時、あしかびの如くもえあがる物によりて成りませる神の名は、ウマシアシカビヒコヂの神。」あしかびとは、「葦の芽」のことですから、ウマシアシカビヒコヂとは、立派な葦の芽の男の神という神名です。この神は湿地の中から、葦草の芽のようにたくましく生まれてきたのです。
古事記にもう一か所、人間と草との関係を示唆した箇所があります。そこでは、人は「うつしき青人草」と呼ばれています。ここは古事記研究家の三浦佑之さんの説を紹介します。

 ウツシキは現実のといった意、青人草は青々とした人である草の意である。この青人草を注釈書類は「青々とした草のような人」と解釈することが多い。しかし、もしそういう意味なら「青草人」という語順になるはずで、「青人草」とはならないだろう。とすると、「青人草」の「草」を比喩とみることはできず、人と草とは同格で、「人である草」と解するのが正しいのである。つまり、古代の人びとにとって、人はまさに「草」そのものだった。とすると、泥の中から芽吹いてくるアシカビ(葦の芽)そのものをあらわすウマシアシカビヒコヂという神こそ、最初に地上に萌え出た「人」だったというのも頷けるのではないか。

 それでも、古代の私たちの先祖の草も人間と同格で、霊性があるというような感覚が、「殺すな」という教えに直結するわけではないでしょう。なぜなら、この「不殺生戒」の草木への拡大は、百姓にとっては、あるいは日本人にとってはと言い換えてもいいのですが、厄介な問題を引き起こします。
 まず、草木の生に着目してその「死」に注目することがなかった先祖たちに、草木の「死」が意識されるようになったのではないでしょうか。
 さらに、当時は日本人のほとんどが百姓だったのですから、「不殺生戒」を草木に広げて厳密に適用するなら、百姓仕事はできません。そこで「むやみな殺生はするな」とゆるめて(妥協点を設定して)生きていくしかなかったのでしょう。


(2)草木の生
 それでは、草木の生を見つめてみましょう。人間や動物の死は、実感できますが、植物の死はあいまいです。栽培された花は切り花になってから出番を迎えます。野菜も収穫してもしばらくは生きています。稲は刈り取っても籾は生きています。つまりいくら仏教が「非情」と言おうと、百姓の実感では芽が出て、葉が繁り、花が咲き乱れ、種が稔るのですから、生が満ちあふれている生きものです。しかし動物ほどははっきりしませんが、死も訪れ、枯れていきます。「有情」に入れる方が、日本人の感覚にはふさわしいと思われます。
 まして、人間は動物や植物を食べて生きていますので、動物や植物を殺さなければ生きていくことができません。百姓はなおさらであることは、前回でくわしく話しました。仏陀だって生前は、托鉢をして、いただいた動植物を食べていたのですから、この「不殺生戒」は厳密に適応するなら、人間は生きていくことができません。そう考えると、人間以外については「むやみな殺生」を戒めたものだという解釈は、当然の成り行きだったと思われます。
むしろこの「不殺生戒」によって、日本人はあらためて、山川草木の命が、自分たち人間の命と同じだという感覚を強く持つことができるようになったのではないでしょうか。なぜなら虫や草も、人間同様に、仏性があり、成仏できるのですから、天地の生きもの同士という天地有情の実感を抱きしめることができるようになりました。

(3)草のいのち
そこで、日本人の原初の生活の中で、草木の命はどのように感じられていたか、遡ってみましょう。
 「草木も生きている」と言えば、反対する人はいないでしょう。ところが「草にも命がある」と言うと、違和感を感じる人が増えてきます。さらに「草木にはタマシイが宿っている。霊性がある」と言えば、多くの人が少し眉をひそめ「それは宗教的な見方ですね」と応じます。
 ここには(1)生、(2)生命・いのち、(3)魂・霊性、の三層があることがわかります。もとは一つだったものが、現代社会では三層に分かれてしまった、と言ってもいいでしょう。草が芽ばえ、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を稔らせるのは、「生」そのものです。しかし、その生の根源には、その生を生まれさせ、支え、終わらせ、そして再生させる何かがあるはずだと感じ、そう思う時にそれを「いのち」と命名したのです。さらにそのいのちは、生のときも、生を失った後も存在し続ける、もっとたしかな、それでいて姿ははっきりしないものの力で統御されているのです。その存在を「たましい」(霊性)と呼んだのです。
 ただ近年気になるのは、「生命」が科学的に説明できるものとして、「いのち」から分離していっていることです。まるで「いのち」から精神性を抜き取ったものが、「生命」であるかのような説明を科学はしがちなのは、危険な思想ではないでしょうか。
 「いのち」や「たましい」のない生きものは、生きものではなかったのです。お玉杓子の死骸を前にして、そこにはもうお玉杓子の「生」も「いのち」もありませんが、済まなかったと詫びる声をかけるお玉杓子の「たましい」はそこにまだ存在しているような気がしますす。「生」と「いのち」の名残として、そこで私の詫びを聞いているという気がします。
 ごはんを食べます。ごはんは炊かれてもう死んでいますが、口に入れて嚼みながら、「いのち」をいただいているような気になるのは、なぜでしょうか。「いのち」の名残があるからです。しかし食べてしまうと、もう「いのち」はどこに行ったのかわかりません。しかし、米の「たましい」はどこかにあって、「ごちそうさま」という声を聞いてくれ、どこからから見ているような気がするときもあります。
この場合の植物の「いのち」は、人間の「いのち」と別物ではありませんでした。なぜなら同じ生きもの同士、生きとし生けるものだからです。


(4)アニミズムは未開の信仰ではない
さて人間には「いのち」があり、「たましい」があるという見方は、先進国では宗教の世界として、認知されています。牛や豚や鶏や、鯨や海豚にも「たましい」があるという見方は、キリスト教徒が多い西洋人もしていますから、これもアニミズムではないでしょう。
 ところが虫や草に「いのち」があり「たましい」があると言うと、「それはアニミズムですね」と決めつけられます。つまり、アニミズムとはキリスト教徒の西洋人の発想です。その定義は言い出しっぺの一人であるイギリス人のタイラーの『原始文化』(1871年)によると、「未開社会でよく見られる“万物に霊魂が宿っている”という感覚は、宗教になる前の形態である」というものです。もちろんこれは西洋の宗教(キリスト教)に対して、他国の精神文化を文明化が遅れているというとらえ方でした。しかし、こうした偏見が、現代の日本人にも、とくに科学者に見られるのは、首をかしげざるをえません。
 今日では、アミニズムは西洋人の偏狭な決めつけであって、すべての生きものにはたましいがあるというのは、決して荒唐無稽な発想ではなく、世界中の民族にさまざまな形でみられるものだと考えられています。したがってアニミズムという言葉は、差別的だと言われるようになったのです。西洋でもキリスト教以前は、いわゆるアニミズムが普通にあったのです。
 現代の日本でも、大木を切り倒すときには、お祓いが当然のように行われています。地鎮祭は今でも衰えない習慣です。樹木や大地には、樹齢や地霊、つまりそれぞれのたましい(神)が宿っているという感覚は、健在です。いくら「非科学的」だと決めつけられようとも、宗教行事どとして役所の支出では認められなくても、いわゆる宗教ではない、もっと古くもっと深い精神世界にあるものです。
それは生きもの同士だという実感から生まれてくるものです。切り倒されていく樹木に生を感じ、いのちを感じ、死を感じ、たましいを感じるのは、私たち人間が生きものだという自覚があるからでしょう。材木になった樹を撫でながら、まだ生きているような気になるのは、たましいを感じているからです。したがって樹木の伐採に際して、お祓いをするのは、たましいを鎮めるためでしょう。哀悼と感謝の気持ちを伝えるためです。
 樹木なら、さらに大木なら「たましい」も強く感じるのですが、足元の野の草ならどうでしょうか。日本人には植物を殺すという発想はなかったのではないか、と先に述べました。それを意識するようになったのは、「不殺生戒」の影響ではないか、とも述べました。しかし、もともと「たましい」は感じていたのではないでしょうか。それは、「生」があふれ、すぐに再生し、しかもずっと繰り返して、持続し続ける強さの本体として「たましい」を感じていたのではないでしょうか。
 仏教の「不殺生戒」にもかかわらず、草の死は、草の生によって隠され、覆われて来たと思われるのです。

                          
※「第1、2回、3回は、この後に残しています。
連載にあたって―その2―  

そもそもこの連載を思い立ったのは、昭和初期の農本主義者の一人橘孝三郎が「農は資本主義にあわない。それは天地自然が相手だから」だと言ったことに感銘を受けたからです。なぜ農は資本主義にあわないのか、を本気で突き詰めないと、資本主義に対抗できるはずがありません。
 農を資本主義にあわせるための学や政治や思想は、これでもかこれでもかと生まれてきました。ところが、農を資本主義からはずすための学や政治や思想はお寒いものです。そのための土台をつくってやれ、と大それた構想を立てたのです。
 いまさら「天地のご恩」などと言っても、時代錯誤だと笑われるならまだしも、言葉が通じない人が多いのですから、かえって好都合かもしれません。「新鮮だ」「面白い」と言ってくれる青年がいるのには驚くとともに、彼らにわかるような表現を切り開かなくてはならないと思いました。    (2016年1月11日)



第3回 生きものの死を見つめる

(1)長寿を願わない

 前回では、昭和四十年代になると、農作物が“できる”から“つくる”ものに変化してきたことが、神の死を準備したという私の見解を述べました。
 同じことが人間についても言えるようです。長崎大学の名誉教授の篠原駿一郎さんが学生に「君の命は誰からもらったのか」と尋ねると、決まって「両親から」と答えるそうです。それに対して篠原さんはこう答えています。

 「(それは)間違いではありませんが、両親は人間を創ることはできません。愛の営みによって、超越的神秘的なプロセスを経て、自然の采配によって私たちは命を授かります。私たちは自然の力で生かされており、私たちの存在そのものが自然の一部です。私たちの命は天から与えられたものです。」(『生命科学のユートピア』NHK出版)
 そして彼の哲学の核心が吐露されます。
 「私たちは死すべき存在ですが、そこにこそ人間の尊さがあります。与えられた生命の自然を過度に越えた長寿や不死は人生の意味を失わせます。しかしまた人為的な死の選択も自然性に反します。「天寿を全うする」とはすばらしい言葉です。これは与えられた命を大切に生きるということであって、長生きを願うのではない、という先人の謙虚な気持ちが表されています。」

 かつては「子どもを授かった」という言い方をしていました。「それは誰から?」という問いを発することもありませんでした。篠原さんはそれは「自然から」「天から」と言っていますが、Natureの意味ではなく、もとからの「自然なもの」あるいは日本人が「天地」の中に感じた自然なもの、つまりカミの意味のようです。
 さらに長生きを「願わない」つまり祈願しないという所にいたっては、原初のカミと人間の関係を彷彿とさせます。篠原さんは臓器移植やクローン技術、iPS細胞技術などで生命観が変質することを危惧して、生命科学の発達に根源的な疑問を提示しています。
 ほとんどの科学者は科学技術の発達に疑問を抱くことがないように見えます。今回は、生きものの死をテーマにするにあたって、篠原さんの引用から始めたのは、どうしても科学技術の生命観への影響を抜きにこの問題は論じることができないと思うからです。


(2)百姓ほど生きものを殺す仕事はない

 「百姓ほど、生きものを殺す仕事はない」と言うと、ほとんどの人が怪訝な顔をします。「えっ、農業は生きものを育てる仕事でしょう?」と反論されます。たしかに百姓も「殺す」という感覚を持たないわけではありませんが、「生きものを殺すから稲作をやめた」というような話は聞いたことがありません。問題はなぜ百姓はこうした感覚がうすいかということです。まず考えられることは、こうした感覚は日本人にとっては近代的な感覚だということです。人間と自然を分けた西洋の視点では「農業は自然破壊だ」という感覚は当然生じたことを連想してしまいます。人間が自然の外に立つと、自然への影響を冷静に見つめることができます。そこから「自然保護」の思想が生まれてきたのです。
 日本では、天地は人間の力で「保護」するのではなく、「自然に」しておくのがよかったのです。百姓の場合には、天地の中の生きものの生死は、天地の采配で、自然な現象だったのです。よしんば土を起こしたり、草をとったりしても、それを草を殺すという行為だとは感じませんでした。それも「自然な」仕事だったのです。それは天地と一体になって、人間が自然にふるまっていた時代のことだとも言えるでしょう。
 ところが、現代の百姓は「百姓ほど生きものを殺している職業はない」と感じることも多くなりました。「自然」という概念を身につけたからでしょう。田畑を耕すだけで、多くの生きものを殺します。(草や虫やみみずや蛙など)さらに生き延びた生きものも鳥が食べやすくしています。トラクターの後を鷺たちがついて回り、餌をついばんでいる風景は珍しくないでしょう。
だからといって、現代の百姓は生きものの死に敏感かというと、そうでもありません。
 私と友人のやりとりを例にとりましょう。友人は、トラクターで田を耕しながら、バックミラーで鳥が何を食べているだろうか、と観察するのを習慣にしています。「この前は土竜を食べているのを見た」私は「ほう」と感心します。このように何を食べているかで話は弾むのですが、食べられる生きものの死そのものには、私も友人もそれほど関心を持っていません。「土竜や鼠を食べてくれてありがたい」「いまでは数少ない天敵かも」などと言って済ませてしまうのです。これは生きものの世界(自然)と自分を分けていて、生きものの世界を外から分析的に見ているからです。
 つまり生きもの死には鈍感なのですが、その代わりに「殺している」という認識はあるのです。一方の昔の百姓は、生きものの死には敏感だっったのですが、殺しているという認識はありませんでした。これはどうしてでしょうか。不思議な現象です。


(3)生きものの死とは

 でも、はたして「百姓仕事は生きものを殺す仕事だ」という感じ方・考え方は、西洋的な新しい考え方なのでしょうか。二千四百年前に釈迦は、百姓が耕した畑から出てきた虫を鳥がついばむのを見て、生きものが抱えている生と死の苦悶に目覚め、救済の道を求め続け、遂には仏教を開いた、と言われています。(『和文仏教聖典』による)釈迦は百姓ではなかったから気づいたのかも知れませんし、日本人ではなかったからそう感じたのかもしれません。
 なぜ釈迦は悩み、当時の百姓も現代の百姓も悩まないのでしょうか。それを「あたりまえ」だと思い、「仕方がない」と感じているからだと思われます。幸いなことに、鷺のために(田畑を耕すために)絶滅していく生きものはいないようです。その証拠に、毎年(二千以上もと言ってもいいでしょう)生きものはそこにあたりまえに出現してくれます。これは天地が百姓を悩まずに済むようにしてくれていると言うしかないでしょう。したがって、生きものが「あたりまえ」にいることが、殺生を「仕方がない」と容認し、ことさらに自覚しない原因なのかもしれません。
 百姓仕事の中でも「草とり」ほど、生きものと濃密に関わる仕事はありません。百姓がもっとも仕事に没頭しやすいものです。その理由は、直接手を下して、体そのもので、草という相手に触れ、しかも相手の「命を奪う」仕事だからです。それなのに「命を奪う」という認識がないのはどうしてでしょうか。
一言で言うなら、「生」が満ちあふれている世界に入り込んでいるからです。それが「あたりまえ」の真の姿です。ここでは、死は生とつながっています。一体化していると言ってもいいでしょう。冒頭の篠原さんの話を思い出してください。死があるから、生が愛おしく感じられるのです。草とりは草を根絶させる仕事ではありません。はっきり言っておきますが、また来年も草とりをすることが約束されている仕事です。
 となりの婆さんがいつも言っています。「今年も草が伸びる季節になったね」と。つまり今年も草とりができる季節がめぐってきたことを喜んでいるのです。「草とりは、とってもとっても、また来年になると草が生えてくるやりがいのない作業だ」という近代的な発想とは、対極にあるものです。後者は種子を激減させて、やがては草を根絶に追い込むことに喜びを感じる精神を誕生させました。近代化技術の開発者は、草の死にきわめて鈍感です。死に喜びを感じていると言ってもいいでしょう。
 となりの婆さんも、草の死には鈍感ですが、草の生には敏感です。このところはうまく表現できないのですが、婆さんは草とりしながら(草を殺しながら)「また来年会おうね」と言っているようなものなのです。
 近代的な除草剤の開発は、二重の意味で大きな罪を犯しています。ひとつは、草そのものの再生を破壊していること。もうひとつは、人間が草の死に悩まなくてもいい世界観を破壊しようとしていること、です。
 田畑の生きものの多くが減少しています。私たちが提案している田んぼの生きもの指標150種(動物)のうち約30%はどこかの都道府県で絶滅危惧種に指定されています。生きものに向き合う時間すら許さない社会では、本当の意味で農薬に代表される近代化技術は、断罪されることはないでしょう。
 私は近代化主義者の中から、現代の釈迦が誕生しなくてはならない、と言っているのです。しかし、釈迦は近代化精神からは決して生まれないでしょう。したがって、もし現代の釈迦が生まれるなら、近代化をしっかり反省した近代化主義者から生まれるしかないでしょう。この逆説は、とても重要です。
私たち世代は、親の世代と違って、幼いときから近代化主義者に教育されてきました。しかし、近代化への深い懐疑もまた抱いてしまったのです。私は、両親の養鶏業を手伝ってきましたが、小中学生の頃までは、数羽の鶏が、売りに連れて行った業者の庭先で殺されるのを、いつもじっと見つめて見送っていました。ところが、高校生から大学生になるころには、数百羽の鶏の首を切る作業を手伝い、それに麻痺していく自分が嫌で嫌でたまりませんでした。同じ死とは思えませんでした。たしかに家畜の死は、草の死とはかなりちがいます。しかし、養鶏が近代化され、多頭羽飼育になるにつれ、死に鈍感になっていくのは、必然の道でした。
近代化の深い闇を経験した私も歳をとりました。現代の私は歩行型の耕耘機に引っ張られるように田の中を歩きます。私が意識するのはターンの時だけです。私にとっては耕耘機は牛なのです。田んぼを耕しながら、逃げ惑う生きものたちにもまなざしを注ぎます。子守グモが圧倒的に多いのです。1㎡に一匹はいるのではないかと感じます。「いかん、いかん」私は生きものを表現しようとして、数まで数え始めています。これでは百姓仕事に没入できません。あわてて数えるのをやめます。子守グモを感じていればいいのであって、数えよう・表現しようとするのは「雑念」なのです。このように近代化精神は、私の中に巣くってしまっています。
 ただここにはもうひとつの難題が待ち構えています。「なぜ百姓は、百姓仕事の精神性(世界観・生命観・天地自然観など)を表現しないのか」と問われるなら、表現しようとすること自体がその世界の外にでてしまい、天地に没入する境地を破壊するからだ、というしかありません。ここが悩ましいのです。表現してでも近代化や資本主義から守らなければならないのに、この矛盾(アポリア)を現代の農業思想は超えることができないでいます。私の方法はただ一つです。内からのまなざしと外からのまなざしとを、自在に切り替えて、往復してみるのです。なあーんだそんなことか、と思う人は、すごい人です。




第2回:神の死が迫っている 
                      
(2016年1月3日)

(1)天地が神になったわけ

 「百姓なら豊作を祈願するでしょう」と言われます。また「農業にとって、祭りは大切な行事でしょう」とも言われます。ようするに、こうした精神世界は農にとって欠かせないという感覚が、百姓でなくても日本人には残っているのです。それは人間が米や野菜や果物を「製造」しているのではなく、天地のめぐみであることが、それとなく了解されているからでしょう。
 自分の力ではないもののおかげで、みのりがもたらされるのですから、「お礼・感謝」と同時にそれが安定して繰り返されることを願う「祈り・祈願」が、百姓の精神生活の中では重要ではないかと、百姓以外の人も気づいていることは重要です。
今回は、この「感謝」と「祈願」の精神を見つめます。そこで私が、先ほどの人に「誰に、何に祈願するのですか」と質問すると、「そんなことは決まっているでしょう、神様でしょう」と断言されます。たしかに村の「祭り」は、集団的な「感謝」と「祈願」の表現活動ですし、その場所はほとんどが村の神社で行われます。いわば神の前で、神に対して行われますから、感謝と祈願は神に向けられているように思えます。
 しかし、私の村の神社は「春日神社」という名称ですから、奈良の春日大社から江戸時代に勧請して建てられたようです。ところが私も含めて村の人たちは、どういう神様(祭神)が祀(まつ)られているかをほとんど知りません。その証拠に上の部落の神社は七郎神社、下の部落の神社は志自岐(しじき)神社ですが、氏子の気質には祀られている神の影響は見られません。
 さて祈願祭には、隣の村の白山神社の神主に来てもらって祝詞をあげてもらいます。その祝詞にはたしかに天(アマ)照(テラス)大(オオミ)神(カミ)への祈願の言葉が出てきます。それは神社本庁のひな形を忠実に読み上げてもらっているからです。しかし、この天照大神なら、太陽神ですから、百姓の感謝と祈願の相手として、ぴったりです。伊勢神宮が百姓に人気があるのは当然のことで、天照大神が皇室の祖先神だというのは、よくできた話だと感心します。ただ明治以降、国家によって村々の神社が統制され、系列化されていったのは、いいことではなかったと思います。それまでは、国家や伊勢神宮や天皇家とはほとんど関係なく、村の鎮守の神であったことの意味が薄れていったからです。
 ここで、立ち止まって考えたいことがあります。百姓の「感謝」と「祈願」は、天照大神信仰や神社の創建よりもはるか前からあったのではないか、ということです。しかもこの「感謝」と「祈願」は、精神としても別のものではないか、ということです。
 現在の百姓でも作物を収穫するときには、天地自然に感謝します。それはお天道さまだけでなく、水や土や風や生きものや家族や村の人たちに向けられます。さらに忘れてならないのは、この田畑を拓いてくれた先祖・先人にも向けられます。これらの背後の神々は、どこにおられるのでしょうか。ちゃんと村の中にいます。ただそれを「天地のめぐみ」と言うか、「神のおかげ」と言うかは、かなり隔たりがあります。天地は目に見えますが、神は目に見えないからです。
天地ではなく、神という抽象的な概念を創造するのは、もちろん宗教的ないとなみ(宗教化)ですが、「神道」には、教義らしいものがないので、この辺の事情がよくわかりません。そこで、私見をこれから述べることにします。なぜなら、天地に対する百姓の素朴な感謝の感情から、神への祈願という行為の間には断絶があるような気がするからです。
 天地(神)に豊作を「祈願する」というのは、ほんとうに昔から行われていたのでしょうか。豊作を「感謝する」気持ちは当然あったでしょう。なぜなら田畑の稔りは天地のめぐみだというのは、人為よりも天地の力でもたらされるからです。それが豊作であればなおさらのことですが、よしんば不作であっても、もたらされたものはありがたくいただくしかないものです。そこに災いをも引き受けざるをえない人間の自覚があります。
 しかし、まだ植え付ける前に豊作を「祈願する」のは、天地(神)の領域に口出しすることではないでしょうか。「神様どうか豊作にしてください」「それは、私が決めることだ」「そう言わずに、豊作を約束してください」「なぜ、人間の気持ちに合わせなくてはならないのだ」「そこを何とか」「うすさいやつだ」ということにもなりかねません。
 もちろん百姓なら豊作であってほしいとは思いますが、それは思うだけのことです。豊作かどうかは人為の及ばぬ天地の采配であって、人間が口出しすることではありません。このことを江戸前期に伊勢神宮外宮の神官であった度会(ワタライ)延佳(のぶよし)はしっかり指摘しています。彼の話を聞いた坂十仏の著した『太神宮参詣記』(伊勢神宮参詣の巡礼紀行文)から引用してみます。

「当宮参宮の深き習は、念(ネン)珠(ジユ)をも取らず、幣(ヘイ)帛(ハク)をも捧げずして、心に祈るところ無きを内清浄と云ふ。潮をかき水をあびて、身に汚れたるところ無きを外清浄と言えり、内清浄になりぬれば、神の心と我が心と隔てなし。既に明神に同じ。しからば何を望みてか、祈請の心あるべきや。これ真実の参宮なり(太神宮の神職より)承りしほどに、渇仰の涙止め難し」

 つまり「祈願」ということが無い状態こそが、神に向き合う心だと言うのです。神と一体になれるのです。そこで感じるのは「ありがたい」という感謝だけでしょう。それなのに、神への「祈願」が始まったことが、神と人間を隔てることになります。
 現代の神社詣では、祈願して、合格や安全や繁盛の約束(御利益)を取り付けるために行われているのが常態ですから、私がこんなことを言っても通用しないでしょうが、少なくともかつての百姓の神に対する姿勢はこうではなかったということを確認しておきたいのです。
 そこで、これまでいとも簡単に、天地=神と言ってきましたが、これは妥当なことでしょうか。
百姓にとって「天地」とは村を取り巻く森羅万象の一切ですが、とりわけ田畑とそこに降り注ぐ日の光、空気と風や雨、山や川や池からの水、そして何よりも田畑と土、そして草や虫や動物などの生きものたち、そして村人を含む時を超えた天地有情の共同体のことです。それを、「神」と呼ぶには、どういう飛躍があったのでしょうか。
 宗教学者は、日本の神は自然への畏怖や恐怖から生まれたと、つまりそれが自然に対する崇拝に変化したときに神が生まれたと説明しています。しかし、自然への恐怖や畏怖なら誰でも感じますし、それに人知を越えた超越的なものを感じ、頭を垂れることは誰でもあるでしょう。でもそれに「神」と名づける必要があったのでしょうか。
 私はたぶん「祀(まつ)る」ときに、名前が必要になったのだと思います。祀る対象であるご神体が眼の前にあるときは、祀りも簡単ですが、ないときは困ります。雨の日のお日様や、干魃の時の雨や、春を運んでくれる風を、眼前に留めるわけにはいきません。まして、天地全体を祀ろうとすると、何か名称が必要になります。
 祀るのは一人で祀ることはありません。その相手が、村のみんなに共感・共有されるときに、祀り=祭りは成立するのです。天地はなぜ有情(生きもの)で満たされているのでしょうか。その有情にしても、なぜ毎年毎年、生を繰り返し続けているのでしょうか。そうした人知でつかめないもののすごさ、奥深さに名前を与えたくなる気持ちが、村人の共感を呼んだときに、祀り=祭りが始まったのでしょう。
 それは天地が宗教化されのです。そして、現代の私たちですら、具体的な「天地」のもろもろよりも、「神」の方がありがたいと感じるようになっているのです。


(2)神の死が近づく


 ところがそうやって遙か昔に生まれた神に大きな危機が迫っているのです。昭和四十年代までは、多くの百姓は農作物の収穫を表現するときに「つくった」とは言いませんでした。ほとんどの百姓が「できた」「とれた」「なった」と表現したものです。それが「つくった」「つくる」と変化してきました。なぜ変化してきたのかは、簡単に説明するのは難しいのですが、とくに重要な原因を指摘しておきましょう。
 「できる・とれる・なる」は、人間が主体ではなく、あくまでも天地自然のめぐみを人間は受け取るという受け身の感覚です。一方の「つくる」は、人間が主体で、自然を加工して目的とするものを生産するという近代的(科学的)な発想です。つまり昭和四十年代にこうした転換が、百姓も意識しないうちに徐々に進行したということです。農業の本格的な近代化は昭和三十年代に始まりましたが、まだまだ前近代の天地観も色濃く残っていました。それが、近代化思想によって、こうした感覚が時代遅れの様相を呈するようになるのが、昭和四十年代なのです。
 一体何が私たちの社会に起きたのでしょうか。私は「高度経済成長」と「科学技術の発達」が主因だと感じます。農村と農業の変化は半端ではありませんでした。
 こうして「天地のめぐみ」を受けとる感性は、「農業生産」という農業技術と農業経営に変革されていったのです。私も今になって気づく有様ですが、この事態を「天地=神」の死だと考えた人はほとんどいませんでした。そして神の死は、現在も確実に進行中なのです。
名詞の「自然」は、Natureの翻訳語として新しく明治時代に造語された新造語ですから、神と人間以外を意味しています。ところが「天地」とは人間も、そして神も含みます。(したがって、Netureの翻訳語にならなかったのです)天地を自然と呼ぶことによって、人間は天地から分かれて、人間と自然として存在することになるのです。(自然と呼ぶことによって、人間は自然の外に出ることができます)
 それまでの天地中心の「できる・とれる・なる」の世界観が、人間中心の「つくる」という新しい世界観によって蹂躙され、覆われていったのが昭和四十年代だったのです。
 もちろんそれは「人間も天地の一員である」という世界観の死でもあり、天地に感謝する心(精神)の死なのです。これを「神の死」だ、と私は感じるのです。こうして「神」は人間の欲望達成のために祈願され、その見返りに感謝されるという顚倒した立場に追い込まれるようになりました。
 天地を神と言い換えようとした先人の宗教化の試みは、大きな試練に直面しているのです。私は神の死は、天地の死と同様に避けられないと思います。しかしその一方で「自然」の価値はいよいよ高まるでしょう。いや言い方を間違えました。人間以外を指す「自然」の価値が高まれば高まるほど、天地という世界認識は衰えていくのです。天地と言っているときには、百姓は天地の中で、天地に没入し、天地と一体になることができます。その時に天地に人為を越えたものを感じるのです。それが「神」だと言われれば、そうかも知れないと感じてきたのです。
 しかし「自然」とは、人間が自然の外から眺めるものですから、没入したり、一体化するものではありません。そうは言っても、まだまだ多くの百姓たちは「天地」を「自然」と言い換えているだけで、天地に包まれる感覚は失っていないと思っているでしょう。でも、天地を対象化して科学的に分析していくことは、「つくる」手段を発達させ、一方で「できる」という感覚を、つまり人間が徹底的に受け身になって、神に近づく気持ちを衰えさせてきたことを軽視してはなりません。
 「感謝」抜きの「祈願」があたりまえになろうとしています。とくに神に人間の個人的な欲望の達成を祈願するというのは、度会延佳を驚愕させずにはおられないでしょう。はたして天地=神は、現世利益を求めて手を合わせる人間を相手にしてくれているのでしょうか。
 神=天地とは、そういう欲望達成の相手ではなかったのに、残念ながら「神社」(神道)はそれに歯止めをかけようとするどころか、むしろ歓迎しているような態度をとっていると言っても言いすぎではないでしょう。神道は農の護教であることを放棄してしまうのでしょうか。残念なことです。
 それではどうしたらいいのでしょうか。私のアイディアのひとつは、天地のひとつひとつの生きものの生に、生を感じなおし、タマシイを感じる習慣をもういちど抱きしめることです。百姓仕事に生産性を求め、生きものにまなざしを向ける時間を馬鹿にする思想を拒否することです。
 もうひとつは、天地の中に満ちているタマシイを神と名づける前の状態に戻ってみるのがいいのではないでしょうか。天地は見えるけど、神は見えない、という原初の宗教化の初心に戻ってみたいのです。それに神という名を呼ぶ直前の精神状態になって、そおーっと「カミ」と、つぶやいてみるのです。それは練習になるでしょう。カミを呼び戻すための。





連載を始めるにあたって


 タイトルを『農の精神性』としたことに、違和感というか嫌悪感を抱いた人もいるようです。「えっ、スピリチャルな世界を書くのですか?」あるいは「とうとう宗教までたどり着いたのですか」と先日も怪訝な顔で、数人の友人に言われました。どうも「スピリチャル」とか「宗教」という言葉に対して、先入観が強すぎるようです。「まあ、そう言わずに、読んでください」と言うしかなかったのです。
私は、これまで誰もやらなかったことをやろうとしているのです。百姓仕事や百姓ぐらしの精神面の、精神的な世界の、表現を試みようとしているのです。連載の場に、このいわば私的な場所を選んだのは、思い切って試行錯誤ができるからだと考えたからです。
 できれば感想をよせてもらえば、ありがたいです。(2015年12月20日)
 この連載は、できれば月に3回のペースで書き続けるつもりです。




第1回:一服するひとときの意味                (2015年12月18日)

(1)天地有情の実感に包まれる

 百姓仕事の合間の一服するひとときは、休憩時間であり、疲れを癒やす時間だというのがこれまでの理解でした。たしかに賃労働では休憩時間は、労働を続けるために必要な休息・準備時間かもしれませんが、百姓仕事の場合は、まったく別の意味を持っています。
 仕事の最中には見えないものを見るときなのです。百姓仕事とは相手である作物や田畑と関係への熱中、あるいは天地自然への没入ですから、そこから醒めたときに、真っ先に目にするのは風景です。それは眺めると言うよりも、風景の方から飛び込んでくるのです。なぜならそれまで、そういう風景に囲まれて(包まれて)仕事をしていたからです。
 その時の風景とは、見慣れたあたりまえの風景だからいいのです。そこに変化があると、心がざわめきます。すると心が安まりません。もちろん変化がないと言っても、四季折々の変化は毎年変わらずに訪れていますから、そうした変化にはすぐに気づきます。
 しかし、その場合でも二層の気づきがあります。たとえば、畦で一服しながら、あらためて田んぼ全体の稲の葉の輝きに目をとめ「うん、今年もまたよく育っているな」と感じ、オタマジャクシに足が生えてきたのを見て「今年もまたそろそろ水を落としてもいいな」と考えます。これは、たしかに仕事の出来栄えを判断し、あるいは次の仕事の予定を考えているのですから、仕事と無縁ではなく、その延長にあると言えるでしょう。
 ところが、稲の葉先から一斉にあふれてくる露の輝きに「きれいだ」と感嘆し、オタマジャクシの群れを見て「今年もまたいっぱい生まれたな」と安堵するのは、直接仕事と関係はありません。だからただの休息時間の中で見るともなく見ている風物にすぎない、と思うなら、それも違います。
このことを説明するのはけっこう骨が折れます。現在では「自然」という名詞が普通に使われているので、つい私たちは見ている対象と人間である自分を分けてしまいます。人間が見ている稲であり、人間が見ているオタマジャクシなのです。しかし、同時に人間である自分もまた稲や蛙と同じ生きもの同士で、同じ天地世界に生きているという感覚もあります。それはかつての日本人が人間と自然を分ける「自然」という名詞を持たずに、人間も「天地」に含まれ、「天地」の一員だと感じていた頃の名残でもあるのです。現在でも「人間も自然の一員である」という言い方に賛成する人が多数を占めることがその証拠です。(語義に忠実に従うなら、自然とは神と人間以外のものを指すのですから、人間が自然の一員であるはずはありません。)
 しかし、私たちはこの場合の「自然」を人間をも含む「天地」の意味で無意識に使用しているのです。百姓仕事とは、人間以外の「自然」の中で、人間と自然が分かれて働いているのではなく、人間も含む「天地」の中で一緒に働いているのです。この感覚をわかってもらえるでしょうか。
 さて、現代でも天地の一員として仕事をしている百姓は、一服するときに、ことのほか生きものの姿に目をとめます。あるいは生きもので満ちている風景を眺めます。そして、じつは百姓は必ずしも自覚していないのですが、そこに天地有情のメッセージを読み取っているのです。稲の葉露のきらめき、オタマジャクシの泳ぐ波紋に、天地有情が今年も繰り返し、そこにあるということを確かめているのです。
まるで百年一日の如く、変わらない生きものたちがそこにいて、生をくり返している風景こそが、あたりまえの何の変哲もないない世界、つまり天地有情の共同体の姿なのです。この世界の中につつまれてあるという感覚が、一服するときに訪れます。仕事の最中にはなかなか感じないものです。天地有情との一体感の感覚が、百姓の身と心を安堵させ、やすらぎを与えてくれるのです。身も心も休まるのです。


(2)二宮尊徳の見方

 ところが、このことに積極的な価値を見いだした百姓がいました。二宮尊徳です。彼の歌を紹介しましょう。

 音もなく 香もなく 常に天地(あめつち)は 書かざる経を 繰り返しつつ

天地のあらゆる様子はまるで「経」を繰り返しているようだ、と二宮は言うのです。天地有情からのメッセージを、彼は釈迦の説法=教え=経になぞらえています。作物や田畑や里山の風景とは、自分が行ってきた仕事の成果であり、さらにその様子からこれらからやらねばならない仕事を読み取ることは、百姓なら当然のことだと思われます。それは、書物に書かれていること、技術書に記載されているマニュアルとはまったく別の様式の読み取りです。こうした読み取りを単に対象の「観察」だとしてきたのは、科学の体質です。
 風景を対象化して、つまり人間と自然とに分けて、分析して結論を出すのではなく、天地のもとで、天地有情の共同体の一員として務めを果たす、というような感覚なのです。
 それを自覚的に、「経」として読み取っている二宮尊徳という百姓がいるのです。こう言うとすぐに、その「経」とは「自然の法則」のことでしょう、と理解する人が多いかもしれません。これは決して的外れとは言いにくいのですが、根本的に次元がが違うと言わざるをえません。
繰り返しますが、二宮は単に天地自然の様子を観察しているのではないのです。したがって「自然の法則」というと、客観的で合理的なものだというのが常識ですが、「経」は自分が受けとる教えです。浅く受けとることも深く受けとることも、時には間違って読み取ることもあります。百姓の経験の力量に左右されますし、在所の文化や風土、自然環境によって、大きく異なるでしょう。
 たしかに二宮が「経」と言っている以上は、そうした個人の差、地域の差などを超えたひとつの真理みたいなものが根底にあると考えていることは明らかです。それこそが「天地自然」を貫くものです。しかしそれは客観的な法則ではなく、自分を律していく教えみたいなものですし、天地自然への感謝の気持ちが根底にあるものです。この感覚を表すために、二宮は釈迦の教え=「経」を持ち出したのでしょう。
 天地は有情(生きもの)で満ちており、その有情の生は毎年変わらずにくり返すものだからこそ、ありがたく嬉しいものだという覚りのようなものがあってこそ、天地からの教えとして、受け取れるというものです。
このような「教え」、つまり「経」を百姓は目の前の風景から読み取ります。たぶんそれはありふれた、あたりまえの風景です。だからこそ、とりたてて言うべきことはないように思えます。現実にも、百姓はこのような日常茶飯事な風景から読み取った教えを、表現することはありません。ただ一つ一つ胸の中に納めていくだけです。時には、忘れてしまうことも珍しくありません。したがってこのような世界は、記録に残っていません。それで一向にかまわなかった、と言っていいでしょう。しかし、時代は変遷し、自然への科学的な分析が精緻になり、科学的な表現が豊かになればなるほど、百姓の精神世界は表現の場と機会を失ってきたのも事実です。
 そこで、話を元に戻しましょう。百姓がもっともよく、ありふれた在所の風景を眺めるのは、一服する時間だと言いました。しかし、この一服する時間と場所が変質してきているのです。田んぼの圃場整備で、失われた最大のものは木陰ではないでしょうか。なぜ日陰になることを承知の上で、先人は田んぼのそばに木立を残したのでしょうか。もちろん桑の木や櫨の木やハザかけの木などは、暮らしに必要だから植え、残したのですが、また祠のそばの木は祠のために植えて育てたのでしょうが、そうでもないところに、役に立たない木が植えられていました。それは一服のための木陰を提供していたのです。
 夏の暑い昼下がり、自動車のクーラーを効かして、車内で休憩する百姓がいます。冷房の風は木陰の風よりも温度も低く、科学的に見れば涼しく、快適に休めるかもしれません。が、車内では天地に包まれることはないでしょう。天地有情の風景を眺め、自分もその一部、一員だと感じることもないでしょう。木陰の風を生きものだと、我が友だと感じることもなくなります。
 私はこのような変質こそが、「近代化」の帰結だと考えます。このような変質の哀しみに目を向けることなく、むしろこの変質を推進してきたのが、近代社会の農政であり、学問であり、科学であったことを、そろそろ認識してもいいでしょう。
 農という営みが、人間が天地の中で天地とともに行う働きかけだという伝統的な定義に基づくなら、一服するひとときは、そのことを自覚できるひとときであり、農の精神性を表現できる扉が開くとき、だと言えるでしょう。