3:研究所公開講座「田んぼの学校」においでください
2:「田んぼの学校」のまなざし

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「田んぼの学校の深いねらい」


「田んぼの学校」は、様々なかたちがあるだろう。いまからも、どんどん増えていくだろう。10万か所の「田んぼの学校」があれば、10万通りのスタイルと内容がある。だからここで語るのは、ぼくの「田んぼの学校」の話だ。
 今まで伝えてこなかったことがいっぱいあるから、農業のこと?自然のこと?食べもののこと?もっともっと、いっぱいある。それを伝えるために「田んぼの学校」は開校したい。ぼくは、田んぼの学校に3つの転換を静かに期待している。


1、食べものの価値を、食べものにだけ語らせていいのか
いつも気になっていることがある。どうして「食べもの」の価値は、食べものに語らせるのだろうか。おいしい、新鮮だ、安い、安全、いつも手にはいる、栄養がいっぱい、などという価値を、食べた人間が実感するように期待する。昔から、そうだったのだろうか。食べものとは、その程度のものだったのだろうか。
現代日本人は食べものの価値を、食べもの、そのものの価値で、はかろうとする。こういう象徴的な光景がある。ファミリーレストランで、「いただきます」と手を合わせる家族を見ることはあまりない。どうしてだろうか。家庭でも「お母さん、いただきます」と調理をした人に向かって、子どもたちは言う。ファミレスでは、料理人は見えない。しかも料理には、対価を払っているので、感謝の念は薄らいでしまう。「いのちをいただく」とか「生きもののが生まれ、死んでいった田んぼの自然の一切をいただく」という想像力は衰えてしまった。いつのまにか、食べものの価値はその程度になったというべきだ。どうしてだろうか。
 このことは、「安全で、安くて、おいしくて、新鮮で、安定して供給されるなら、輸入農産物でもかまわない」という価値観と同根ではないだろうか。しかし、こうした子どもや、消費者や、家族を責めるわけにはいかない。こうした価値観が、残念ながら、私たちが建設してきた、この五十年間の近代化社会の土台思想だったのだから。それは、大いなる経済成長を達成し、成功だったと思われている。私たちは実に多くものを、近代化によって手に入れた。そして実に多くのモノを失った。何を失ったのか、そろそろ数えてみる時期になったのではないだろうか。
田んぼの最大の悲しみは、食べものが育った「環境」が、食べものとしての「米」から、ご飯から伝わらなくなったことだ。つまり「百姓仕事」の楽しさ、すごさが伝わらなくなった。田んぼの学校のねらいは、まずここにある。食べものの価値を、食べものだけに語らせない。


2、せまい生産から本来の生産へ
 現在では、田んぼでとれる米は生産物だが、田んぼで生まれる赤トンボやメダカや涼しい風は生産物ではない、と考えるのがあたりまえだ。近代化精神によって、食べものの価値は、自然環境から切り離されてしまった。「身土不二」という考えが死んでしまうのは、当然だった。しかし、近代化される前の精神では、米も赤トンボも涼しい風も“めぐみ”だった。(ほんとうは今でもそうなのに。)それを誰かが、選り分けて、カネにならないものだけを「生産」と定義した。これは、考えてみるとすごいことだったのだ。なぜなら、それによって、生産を上げる目標を、収量や所得などの「数値」に、絞り込むことができ、農政や農業指導や農学は、やりやすくなった。いまでも、すぐに収量や所得を比べて、評価を下したがる。だから、農の世界はどんどん狭くなっていった。さらに、百姓仕事が生み出す自然環境を、タダどりしやすくなった。いったいそうしたのは誰なんだ、と自らに問うと、ドキッとするしかない。百姓も含めて、私たちのなかの近代化精神が犯人だ。
だから、ひとごとではない。こういう、自分の中にある思想を、そろそろ転換しようと思う。一言で言えば、「自然環境」は「百姓仕事」が生産するもの、と考えようと言うことだ。田んぼで言えば、米だけでなく、赤トンボもメダカもカエルの声も、涼しい風も、彼岸花の風景も「生産物」と定義し直すのだ。
百姓仕事が自然環境も「生産」していると定義することによって、はじめて農の中に、「自然」を位置づけることができる。しかし、カネになるものしか「生産物」と認めない価値観がもう四十年も続いてきたから、簡単には行かないことは覚悟している。しかし、いかに近代化精神に冒されてはいても、カネにならない“めぐみ”つまり「自然」が、百姓仕事によって支えられているのは事実だ。それを「生産物」と呼ぶことで、本質が見えやすくなるのだ。それを、具体的に示してみせる「場」がなかったのだ。
米のおいしさに目を細める人が、食べながら田んぼで生まれる赤トンボや涼しい風を思い浮かべるように、想像力をはばたかせる。そういう感性を取り戻す場が「田んぼの学校」なんだ。


3、近代化を問う
田んぼの学校でのプログラムでは、「作業体験」がどうしても重視されがちだ。それは悪いことではない。その場合に「田植え」と「稲刈り」が中心になるのは、当然かも知れない。ところが、「畦を歩く」「畦の草を刈る」というような仕事は、カリキュラムに組み込まれることはない。「生産」に直結しないからだそうだ。まして、「畦の花を摘んでまわる」カリキュラムは、遊びの時間ではあっても、農業体験ではないそうだ。そうだろうか。ぼくは、ただ畦を歩くだけの時間があってもいい、いや、ある方がいい、と考える。
友人の百姓の話を紹介しよう。
「田んぼの仕事の合間に、畦に腰かけて休むだろう。ふと目を畦に落とすと、いつも花が咲いている。いいなあ、きれいだなあと、いつも思っていたんだ。でも、そのことを妻にも、子どもにも話すことができなかった。だって、農業生産とは関係のない世界だろう。妻に話すと、“そんなことばかり考えているから、仕事がさばけないのよ”なんて言われそうでね。子どもには“お父さん、意外にロマンティストなんだあ”とからかわれそうでね。でもやっと、話さなければならないと、決心がついたんだ。たまたま前の年の秋に、一枚の田だけ畦草刈ができなかったんだ。そうしたら、春になっても、その畦だけは、みすぼらしい花しか咲かなかったんだ。自分の百姓仕事があればこそ、野の花は毎年変わらずに、きれいに咲いていたんだと知ったよ。そしてその野の花の風景に、ぼくも感動し、励まされていたんだと、わかったんだ。」
もはや、友人のまなざしは、カネになる狭い生産だけを見てはいない。いったん近代化で否定された世界がここには見事に復活してきている。じつは近代化とは、近代化されない世界によって支えられていることに、気づかねばいけないのではないだろうか。
もうひとつ、田んぼの学校が近代化を問いつめることにならざるをえない理由を次にあげよう。


4、「仕事の伝え方を見直す」
仕事はきついより楽な方が、汚れるよりきれいな方がいい仕事でしょうか。カネにならないよりなる仕事の方が、効率が低い仕事より高い仕事の方がいいのでしょうか。「そんなの当たり前だ、世の中はそういう方向に進歩してきたんだ。」と言われそうですね。でもこういう言い分を認めてしまうと、おかしなことになるのです。なぜなら、子どもの教育が成り立たなくなります。
もし、きつい仕事や汚れる仕事が時代遅れの仕事であるなら、どうして農業体験では、手植えや手刈りをやらせるのでしょうか。子どもを田植機やコンバインに乗せればいいのに、なぜ近代化される前の仕事をわざわざ体験させようとするのでしょうか。
それは手で植えたり、刈ったりする方が、機械でやるよりも、はるかに大切なものが経験できるからです。その大切なものとは、仕事の充実感ではないでしょうか。でも充実感なら工場労働にもあります。なぜ百姓仕事をことさら選ぼうとするのでしょうか。
現代社会は効率を上げるために、労働はどんどんマニュアル化されています。自分で判断することは禁止されます。だから、こうした労働は虚しいものです。こうした労働を子どもたちに体験させる必要はないでしょう。むしろ、そういう労働ではない労働もあるんだ、そのほうがもともとの人間の仕事だったんだ、と教えたいから「農業体験」が脚光を浴びているのでしょう。
 百姓仕事の特徴は、体全体で、感性でつかめる仕事だ、ということです。子どもにもつかめる仕事です。田植機の上では、オタマジャクシの生を感じることはできません。素足ではいるから、土の軟らかさ、きめの細かさ、温かさ、を感じることができるのです。手植えだから、「田んぼって、石ころがないんだ。」と感じる体験ができ、体の中に残るのです。こんなに感性を刺激され、またこんなに感覚を働かすことを求められる仕事があるでしょうか。ここには経済性や効率を忘れてしまう世界があります。労働が苦痛だと教えなければならない社会は困りものです。カネになろうとなるまいと、やらねばならない仕事、やりたい仕事というものが残っているうちに、どうにかしたいのです。
ある「田んぼの学校」で、無農薬と慣行栽培の比較試験をしたそうです。やる前は無農薬支持派が多数だったのに、収量が七〇%に減ったことがわかった後では、農薬肯定派が多数になったそうです。しかし、無農薬支持の子どもの中には、「オタマジャクシが多かった。」「コナギの花がきれいだった。」という理由がありました。収量というカネの論理で価値を決めるのはたやすいことです。むしろ、子どもたちはそういう世の中に放り出されていくのですから、そうではない価値観と、そうではないまなざしも必要だということに、気づく「学校」が求められていると、思うのですが。       (宇根 豊)