4:環境稲作のすすめ
3:風景を守る技術
2:環境技術の提案

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百姓仕事が自然をつくるワ

長いこと日本人は、農業にとって「自然」とは何かを、考えることはなかかった。その必要もなかった。それをやっと「多面的機能」として表現せざるをえなくなったことは、決して喜ばしいことではない。それほどに、農業にとっての「自然」が危機に瀕するようになってしまったのである。しかし、この危機に瀕した「自然」を救い出すには、百姓仕事を救い出さなければならない。なぜなら、「多面的機能」は百姓仕事によって支えられてきたからである。旧来の農学は、百姓仕事の中から農産物を生産する技術を抽出し、近代化することには成功したが、自然を支える技術を抽出するどころか、そんなものが百姓仕事の中に含まれていることすら、気づかなかった。
 私たちは自然への危機感をバネにして、その「多面的機能」や「自然」が、どういう百姓仕事によって、支えられているかを解明してみようと悪戦苦闘を続けている。この新しく悲しい分野を切り開いていく覚悟が、私たちにはあるからだ。その覚悟が、誰から、どこから求められているかを、田畑の中で、体全体で、タマシイを震わせるほど感じているからだ。


1、生きものを守る技術の必要性
カエルの鳴き声はいいものだ。代かき・田植えが終わったことを告げるからだ。百姓でない人にも、夏の訪れを知らせる。これも農業の「多面的機能」だと言う。まるで、自然現象のように、この国に満ちる。
 しかし、このカエルの声には、これ以上の意味はないのだろうか。それにこのカエルはひとりでに生まれ、ひとりでに死んでいっているのだろうか。新・農業基本に「多面的機能」がうたわれながら、国民の農業を見る目がなかなか変わらないのは、百姓の自然への関わりが深まらないのは、多面的機能がどういう百姓仕事によって支えられているか、が明らかになっていないからである。
 代かきが終わらないと、一斉にカエルのオスがメスを求めて、鳴き出すことはない。カエルは代かきという百姓仕事を待っている。代かきが済むと、水位は安定し、水は一挙にぬるむ。オタマジャクシの餌である藻類やユスリ蚊も生まれてくる。安心して産卵できるわけだ。じつはわが家は周囲の田んぼより、田植を1週間遅らせる。ウンカの被害を回避するためだ。だから1週間前から、まわりの田んぼではカエルが盛んに鳴いている。わが家のカエルは、その声につられて、隣の田んぼに行ってしまわないだろうかと、不安になった。そこで昨年、カエルを数えることにした。代かきの時はカエルはみな、畦に登って避難している。畦際を耕耘機で代かきしながら、数えていくのだ。すると一匹一匹と目が合うのだ。カエルは生まれた田んぼに帰ってくることがわかった。10アールで約1200匹だった。もし私がその田を減反したなら、カエルはどうなるのだろうか。
棚田では、毎日田回りをする、モグラで畦に穴があき、水がもれ、畦が崩れるのが恐いからだ。もちろんオタマジャクシの命を守るための田回りではないが、こうした技術があるから、オタマジャクシは守られる。カエルの命は百姓の掌中に握られている。
オタマジャクシは農と自然の研究所の全国調査によれば、10アールに23万匹にもなる。どうしてこれほどの数がいるのだろうか。カエルは「益虫」で、多くの害虫を食べてくれる。また、産卵数が多くないと、オタマジャクシは多くの生きものに食べられてしまう。オタマジャクシがいるから、多くの生きものが田んぼに集まり、田んぼで生きられる。だから、カエルを守る技術が形成されてもいいではないか。それは決して、難しい技術ではない。しかし、カエルが有用だから、守るのではない。有用性を越えた技術を視野に入れ始めたことに注目したい。


2、新しいまなざしの技術の誕生
カネになるものを増やすのが農業技術の目的だと思っている人が多い。しかし、カネにならなくても、大切なものはいっぱいある。有用性が農学で証明されていない生きものも、水田稲作の歴史が始まって2400年間、田んぼで生きてきたのだ。それなりの働きをしていると考える方が自然だろう。
 ユスリ蚊を例にとる。この虫を知らない人はいないだろう。夏の夜に電灯に集まってくる、蚊に似た虫だ。田んぼの上でもよく蚊柱になっているのを見かける。この虫は害にも益にもならない「ただの虫」だと言われている。水田では、10アールで100万匹を越える。これほどの虫が何のために田んぼにいるか、誰も考えたことがなかった。生産に寄与しない、関係ないものだと考えられてきたからだ。
 ところが、ほんとうは百姓は気づいていたのである。クモの巣に最も多く、かかっているのがユスリ蚊だということに。またユスリ蚊の蚊柱に赤トンボや蚊取りヤンマが狂ったように飛び込んで食べている光景を見たことのない百姓はいないだろう。ところが、関心がないから、その意味を考えることもなく、記憶にも残っていないのである。
またユスリ蚊の幼虫もよく知られている。「赤虫」「金魚虫」などと呼ばれる、真っ赤な1pほどのミミズみたいな虫で、どぶ川にも多い。この幼虫は、魚の餌になるだけでなく、ヤゴやゲンゴロウやオタマジャクシの餌にもなっている。田んぼの天敵たちを支えている大切な生きものなのだ。しかも、この幼虫自身は、田んぼの土の中の有機物を食べて、分解してくれ、稲へ養分を補給している。水田では無肥料でも7,8割の収量があるという地力の再生産力を、支えている重要な存在なのだ。
 こういうふうに見つめてくると、田んぼの中の循環の輪が、少しは見えてくる。しかし、ユスリ蚊を育てる技術は、今まで全くなかった。目先のカネになる技術だけが開発対象だった。循環など、考えもしなかったのが、近代化技術だった。だから、農薬や化学肥料を使用するときに、ユスリ蚊への影響を考慮に入れる習慣は、未だにない。
 ユスリ蚊はまだいい。「ただの虫」の中でも、どうにか有用性が説明できるからだ。田んぼの生きもので、有用性や有害性が明らかになっているものは、わずかなものだ。ほとんどの生きものは、有用性が説明できない。だから、軽視され、平気で殺されてきた。
田んぼには、生きものを育てる「多面的機能」があると言うのなら、現時点で有用なものだけでなく、すべての生きものを大切にするまなざしがなくてはならないだろう。


3、洪水を防ぐ技術はどこにあるのか
多面的機能の代名詞みたいに言われる田んぼの「洪水防止機能」を支える技術は、現行の稲作技術の中には見あたらない。百姓ならわかるだろう。雨が強くなったら、できるだけ田んぼには水をためないようにするのが、まともな技術だ。すぐに水口からの流入を止め、水尻からの排水を促す技術ならあるが、あえて湛水するなら、稲の冠水のよる被害や、棚田では畦の崩壊を覚悟しなくてはならない。
 そう言っても、結果的に、雨水は田んぼに溜まり、下流の洪水を防ぐのも事実だ。しかし、意識して行使しない技術を、誰が自慢できるだろうか。ここに「多面的機能」を理解するときに最大の難関がある。つまり近代化技術には、多面的機能を増進する技術は、ほとんどない。むしろ多面的機能を破壊する技術が多かった。こことの反省抜きに、新しい技術は形成できないだろう。
 そこで、近代化されないで残っている技術に目を向けてみよう。田んぼに水が溜まるのは、自然現象ではない。畦があり、畦の手入れが行われているからだ。現在では。「畦ぬり」や「畦草刈り」や「畦歩き」は、労多くして効果の少ない技術だと考えられている。労働時間の短縮を妨げ、コストを引き上げていると、目の敵にされている。だから、畦塗りの代わりに畦波板や、畦草刈りの代わりに除草剤散布が、推奨され、田回りの時間は省くように指導が行われている。ところが、畦塗りにより畦からの漏水は防がれ、畦の高さも5pは高くなる。畦草刈りや畦歩きによって、畦は強度を増す。こうした仕事によって、「田んぼは、ダムにもなりうる」ことに、国民のまなざしが届いているだろうか。
畦を歩く田回りを例にとろう。畦を歩くことによって、畦の土はしまる。また畦草は、踏まれるところと踏まれない部分で種類が変わり、多様な植物が、多様な根の張りを生み、崩れにくくなる。しかも、田回りによって、畦の状態は不断に、チェックされ、モグラの穴などもすぐに埋めることができる。また、畦草刈りは、畦を歩きやすくするためだけに行うのではない。畦の植生を多様にして、畦を守り、生きものに多様なすみかを与える。こうした機能は、決してコンクリートでは代替できないのだ。
ところが「洪水防止機能」を評価する人が、こうした近代化される前からの土台技術によって、この機能が発揮されていることを言おうとしない。ここにこそ、多面的機能が百姓のものにならないワケがある。つまり農業には、その結果が百姓に、意識されていない技術があるということだ。工業的な技術で、農業の技術を見るから、見えないのだ。しかし、意識しないものを、どうして意識すればいいのだろうか。


4、環境の技術の本領
自動車工場では、自動車しかできない。意識した目的物しかできない。そこには、ムダなものを作る技術は存在しない。ところが、近代化される前の百姓仕事は、ムダなものをたっぷり育ててしまう。もちろん百姓は「コメ」の生産を目的にしているのだけれども、どうしてもカエルもユスリ蚊も彼岸花も育ててしまうし、洪水も防いでしまうのだ。そういう意識してこなかった“ムダ”を多面的機能として、意識して評価しようというのであれば、それを生み出す技術をも意識しなければならないだろう。
 なぜ意識しなくてはならないのか。それは、その仕事が危機に陥っているからだ。ということは、それによって支えられてきた多面的機能が危機に陥っているからだ。そうした危機感がなければ、意識化はできない。
 この報告を生きものから始めたのには、ワケがある。多くの生きものが激減しているからだ。多くの県で、絶滅危惧種のリストアップが始まっている。ぜひ自分の県のレッドデータブックを県庁から入手してほしい。福岡県では、約800種が希少種になっているが、そのうちの1/3以上が田んぼとその周辺の生きものだ。メダカ、ドジョウ、タニシ、イモリ、殿様ガエル、赤ガエル、ゲンゴロウ、水カマキリ、豊年エビ・・・・紹介していたら、きりがない。これらは、農業の近代化によって、息の根を止められようとしている。しかし、まだ絶滅しているわけではない。これらの生きものを守ることができるのは、百姓しかいない。
コンクリート畦畦や、畦波板を拒否して、畦塗りをするから、シュレーゲル青ガエルは畦の斜面の土に、産卵できる。ゲンゴロウやホタルは、畦の土の中で、蛹になれる。生きものを育てるという意識で、すべての技術の見直しが求められている。
そのためには、自分の田んぼや水路に、どういう生きもの(草花も含めて)がいるかを調査することが先決だろう。表1には昨年「農と自然の研究所」が全国の百姓に呼びかけて行った調査の、平均値をあえて掲げる。こうして、生きものの数を数える百姓が登場したことに、時代の変化を感じる。あなたは、この表を眺めながら、何を感じ、何を意識するだろうか。
時代遅れだと言われている畦の手入れが、水辺の生きものを育てる土台にあることを、きちんと評価しなくてはならない。これらの畦の手入れ技術が、ユスリ蚊を育て、カエルを育て、さらに多くの生きものを育て、そして洪水を防ぐ技術にもなっている。この技術の多面性は偶然ではない。すべての技術は、生きものと、稲と、水と、土によって、つながっている。これが多面的機能を支える技術の本質である。


5、風景の技術(棚田が美しいワケ
棚田保全と称して、畦をコンクリートにする事業が始まっている。愚かなことだ。5年もすれば、畦を土に戻す事業が始まるだろうに。なぜなら、土畦の見直しが進んでいるからだ。
都会からやって来て、初めて棚田を見た人でも、棚田を美しいと思うのはなぜだろうか。それは、人間の原初の仕事が見えるからだ。自然に働きかけ、自然と折り合う知恵が見えるからだ。それは、人間に安らぎをもたらし、美意識を形成した。それは、「畦の手入れ」という技術から生まれた。もし棚田の畦が、草に埋もれていたら、崩れていたら、その田を美しいと感じるだろうか。
逆にこう考えてみるといい。手入れしてない自然が見苦しいのはどうしてだろうか、と。自然の驚異が押し寄せて、不安になるからだ。つまり棚田の畦の手入れという仕事が、その風景を美しいと感じる感性を、育てている。ところが、いわゆる「多面的機能」は、「水田の風景を形成する機能」というように表現してしまうから、まなざしが仕事の届かないのである。
そこで、コンクリート畦は、なぜ美意識を形成できないのか、考えてみよう。そこでは、自然との関係が死に絶えているからだ。仕事によって、自然のめぐみを引き出そうという姿勢が消滅している。なぜ、いったん舗装した畦のコンクリートを引きはぎ、もう一度彼岸花を植えようとしている棚田があるのだろうか。百姓は、そうした自然との関係によって、自分を支えてきたからだ。仕事を終えて、畦に腰をおろし、周囲の風景を眺める時に、押し寄せてくる安らぎは、もちろんカネにはならないが、とても大切なものだ。こうした精神世界を、多面的機能として評価する哲学を、私たちはうち立てようではないか。
そうしないと、子どもたちに、「美」を教えることができなくなる。身近な自然は、人間が手入れしなければ、荒れていくことを伝えることができなくなる。畦の手入れをしたくないから、手入れに値する評価が、代償が得られないから、コンクリートにするのである。除草剤を畦にかけるのである。それは、もちろん政治の貧困でもあるが、そういう美しさを、百姓仕事の成果として認めてこなかったツケでもある。このツケを解消する入り口は、風景を支えているすべての百姓仕事を明らかにすることである。ここでは、畦の手入れのみを取り上げたが、それが棚田で見えやすいからにすぎない。棚田を守るとは単に条件不利地の稲作の保護などではなく、百姓仕事の評価を広げることにある。だからこそ、棚田の次は、平坦地の田んぼが対象になる。


6、人間の誇りを取り戻す技術
春になると紋黄蝶が飛び、夏になると黄アゲハが舞う。自然現象だと、誰でも思っている。ところが紋黄蝶の幼虫は、レンゲや烏のエンドウ、クローバーを食べて育つ。黄アゲハの幼虫はセリや人参の葉がないと育たない。つまりそこに農業がないと生きられない。しかし、レンゲや人参を栽培する農業技術はあるが、烏のエンドウやセリを育てる技術は存在しない。それをつくればいいではないか。
 こう言うと、「おいおい雑草を育ててどうするんだ。」と怒られるだろう。多面的機能がほんとうに、国民に評価されれば、怒られることもなく、むしろそうした技術に「助成金」(デ・カップリング)も用意されるようになるだろう。
 「しかし、野の草花に価値を見いだすのは簡単ではない。」と誰しも考えるようだ。そうだろうか。そんなことはない。子どもを見るといい。学校からの帰り道、畦で花を摘んでいる光景は、まだ滅びてはいない。そこに花が咲きほこっているなら、誰しも足を止める。子どもの価値観は、まだ近代化されてはいない。カネになるものだけに価値を認めたりはしない。
 ところが、私たち大人もそうした感性を失ってしまったわけではない。友人の話を紹介しよう。彼は、前の年に事情があって、最後の畦草刈りができなかったそうだ。すると翌年の春になって、畦の花が美しく咲かないことに気づいたという。春の草は、冬の間に葉と根を伸ばし、花を準備する。ところが前年の夏草の枯草が残っていると、陽があたらず、育ちが悪くなる。また枯れ草の中で咲いても目立たない。その後の彼の発言に驚いた。
「オレは畦の花が好きだ。いつもなごまされ、はげまされ、支えられてきた。しかし、その花も自分の畦草刈りという仕事によって育っていたことを初めて自覚した時に、初めて野の花の美しさを、自信を持って人に語れるようになったんだ。」
ここにこそ、今までの技術にはなかった哲学がある。多面的機能を百姓のものにしていく方法がある。これこそ新しい技術思想である。私はこの報告で、畦に焦点をあてて語っている。畦は、現代では、ほとんど何も生産しない。畦など、なければない方がいいという風潮が、畦の手入れを負担に感じるような百姓を育てる。ところが、その畦を手入れする仕事が、自然環境を支えるものとして意識されるときに、新しい技術として、よみがえるのである。


7、新しい政策の要求を
 畦の手入れのように、生産に直結しない技術がある。これを「土台技術」と呼ぶ。この土台技術は、生産性向上の足を引っ張るからと言って、省くべきだと言われてきた。試験研究や普及指導の対象からはずされている。一方田植や稲刈り、施肥や防除などは、直接生産に寄与する「上部技術」であり、試験研究機関で、近代化するための研究が盛んに行われてきた。
 じつは、多面的機能を支えているのは、近代化された「上部技術」ではなく、近代化の対象にならない「土台技術」であることが明らかになってきた。ところが「土台技術」は評価されないままだ。なぜなら、いまだに多面的機能がカネにならないからである。その「土台技術」が、自然環境を支えるていることを、百姓が意識し始めると、それが危機に瀕していることに気づく。ここまで来ると、新しい政策が、提案できるだろう。 
 ドイツの例を紹介することにする。写真の28種の草のうち、4種以上の花が咲く草地には、デ・カップリングで助成金が払われる。(1haに4000円。少ないと思うだろうが、経営面積が平均50haだから。)こういう政策が実施されていることをどう考えたらいいだろうか。田舎の草原の花に、価値を見いだす国民がいる。さらにそうした花を美しく咲かせる農業技術が存在することを、国民が理解している。牧草の収量を重視して、頻繁に草刈りするなら、花は咲かないから、草の種類は減っていく。多肥にすれば、吸肥力の強い草ばかりが優先化する。つまり多様な花を咲かせるためには、農業の生産性が落ちる技術を選択しなければならない。それを補償しようと言うのだ。
草地の花の調査は、百姓自身が実施している。調査方法のマニュアルも配布されている。しかも、助成金も申請したい人だけが、自分で申請する。とっくに、EU内は農産物の輸出入は自由化されている。農産物の価格や、生産高だけでは、もう農業所得は維持できないのだ。
気づいただろうか。ドイツでは、多面的機能への助成金(デ・カップリング)は、じつは「自然環境」への農業の寄与を利用して、農業そのものを守っていこうとする戦略なのだ。多面的機能を、単なる環境問題にとどめておいてはならない。
そこで日本でも、「土台技術」へのデ・カップリングを要求する時期に来た。そのためには、多面的機能がどういう「土台技術」によって支えられているかを明らかにしなければならない。そのために方法を、畦を例にとって、報告しているのである。


8、人間の位置を確認できる技術
どうして私たちは、何もいない川よりもメダカが泳ぐ川の方がいい、何もいない空よりも、赤トンボが舞う空の方がいい、何も聞こえない夜より蛙の鳴き声が届く夜がいい、と感じるのだろうか。それは、生きものが、毎年毎年、くりかえし、くりかえし生まれてくることに、深い安らぎをおぼえるのである。だからメダカのいない川、トンボのいない空、蛙の鳴かない夜は不安なのだ。何かが、くりかえせなくなっている、と感じるからだ。この安らぎが社会に満ちていた時代は、このめぐみを意識することもなかった。このくりかえしが(「循環」とも、「持続」とも言うが)じつは百姓仕事によって支えられていたなんて、誰が考えただろうか。あまりにも当たり前すぎて、すごいことだった。その循環の中に、カエルも人間も食べものも、ちゃんと位置づけられていたのだ。この循環を土台にして、食べものは生みだされていると言ってもいい。生産か環境か、ではなく、自然環境に抱かれてこそ、農業生産はくりかえすことができる。だからこそ、農業技術は自然環境を守る責任がある。
そこで新しい技術の一例をあげよう。多くの生きものを育てるために、「田植後30日間は水を切らさない」技術を提案したい。そのためには、@丁寧な代かき、A入念な畦塗り、B頻繁な田回り、A定期的な畦草刈りなどが、欠かせない。これは稲作のコストをひき上げる。しかし、このコストは確実に、この国の“めぐみ”をふやし、国民を癒し、安らぎを届ける。このコストを補償する政策が、デ・カップリングである。
輸入農産物を常食にするなら、たとえそれが安全でおいしいものであっても、日本の田園の風景は荒れ、百姓仕事は亡ぶだろう。「茶わん一杯のごはんを食べることによって、赤トンボ一匹、ミジンコ十万匹、カエル三匹、彼岸花一本、ジシバリ二本、涼しい風三十秒、・・・が守られるんです。このめぐみを、あなたに実感してほしい。」と発言する百姓が現れてほしい。日本型のデ・カップリング、とくに環境技術政策の具体的な骨子は、農と自然の研究所から発表されている。今後は実現に向けて動き出すだろう。
「多面的機能」という言葉だけで、わかったように気になってはいけない。この国には、多面的機能をいかす技術も、それを支える政策も、今から形成しなければならないのだ。それを、今まで通りに、農業試験場や大学や霞ヶ関に任せっぱなしにはできないぐらいに、危機は進行している。たしかに私たちには、余裕もカネにもないが、百姓がそれを引き受けて行くしかない。それは決して困難な道ではない。ここではその骨子しか紹介できなかったが、あなたが実感することばかりだったろう。百姓が個人の思いで支えてきた、カネにならない“めぐみ”こそが、国民共通のタカラモノでもあるのだから。

私たち百姓は、長い間、自然に抱かれて農業生産を持続させてきた。しかし、これからは自然を意識的に支える生産へと転換しなければ、自然に報いることはできない。そのためには、カネになるものだけを求める「狭い、浅い、短い生産」から、カネにならないものを守る「広い、深い、遠い生産」へと転換しなければならない。それは、当面は自然の危機を本気で受け止めた百姓の思いでのみ、試みられていくだろう。しかしそうした百姓の思いを支援する国民も確実に誕生しているのである。